和風住宅とは何か、それは庭と共にあることではないかと思う。古代、源氏物語絵巻に描かれる寝殿造りにも、壺と呼ばれる美しい庭があり、その部屋に住まう美しい人をも指していた。中世、室町期の東求堂は銀閣の庭のなかに建てられた。近世、修学院離宮は見渡す限りの庭に遠山の借景、建築は大海に浮かぶ小舟といった風情だ。近代、吉田五十八は新興数寄屋を起こし、千利休と電気生活を合体させ、北村美術館の四君子苑という名庭に華を添えた。現代は敗戦の痛手からか、日本人は庭を持つ気概を無くしてしまった。相続の度に家屋は縮小し、庭にはプレハブが嵌められ、畳は捨てられた。和風はかろうじて高級旅館にその名残を留めるだけとなってしまった。
私はこの都会から離れた有閑の地に和風を復活させたいと願った。まず庭があり、その庭を愛でるための軒がある。軒は傘と言い換えても良い、夏の熱射を凌ぎ、冬の雪を避けるための傘としての構築物がこの建物だ。傘の取手は柱となり、竹の取手の内部の空洞を少し広げて雨露を凌げる内部空間とした。庭の広さを楽しむための最適の庇の深さが検討され、屋根が描かれ、屋根に対して異常なほど狭小な居住空間が逆算された。住むことに優越して見ることがあるのだ。
造園の基本は景石にある、石の見立ては建築家の仕事ではない。石に取り憑かれた石頭の人間の仕事だ。私は福島の山奥で、滝根石と呼ばれる自然石の、岩盤から数億年の眠りを覚まされて剥がされた数千個の石達の中から、特別な気配を送ってくる二つの石に邂逅した。石を選ぶときにいつも感じるのは阿吽の呼吸だ。敷地の形状が頭の中にあって、そこにぴたりとはまる、ジグソーパズルの一片を探し出す呼吸だ。全く別の場所にあったこの二つの石は、お互いを呼応し合っているように私は感じた。石は凸型と凹型で陰陽の対を成し、悠久の昔一体であったのが、地殻変動の時バネのように弾き飛ばされてこの庭になった、というのが私の空想である。二つの石の間には緊張関係があり、それも阿吽の呼吸であり、風神雷神関係であり、男女和合の愛人関係でもある。女石の窪みからは汲めど尽きせぬ清水が懇々と湧き出る。しかし庭は言葉による説明を拒むような庭でなければならない、言説は削除だ。庭の外構を囲む石垣は八岐大蛇のように大きくとぐろを巻いている。昔、織田信長が安土城造営の時に使った石工集団、穴太衆(あのうしゅう)と同じ積み方の野面(のずら)積みで積んだ。石は近隣で取れる相木石(あいきいし)、昔から石は近場のものを使うのが定石だ。
建物の屋根の架構が組みあがった頃、私は一つの扁額に巡り合った。「和心」と揮毫されている。江戸後期の真言僧、慈雲尊者の手になる扁額で、自らの和歌が彫られている。
白雲(しらくも)よ 月よ 桜よ 見るままに 萬代尽(よろずよつ)きぬ おの我(が)春秋(しゅんじゅう)
白い雲が流れ、月が照り、桜が咲くのをただ見ていると、遠い昔へと、私の心は誘われてゆく。私は季節の虚ろいのなかにいる、それが和の心だ。
私はこの建物の軒下にこの扁額を掛けることにした。
私の好きな慈雲の歌をもう一首。
心とも 知らぬ心を いつのまに 我が心とや おもい染めけむ
和の心、などと言ってはみたものの、「私の心」とは何なのかも定かでない私の心には、和の心は萬代の先にある。
杉本 博司
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