縦横に枝を伸ばした枯木と丈の低い篠竹をそれぞれ左右に配す。見る者に凛とした印象を残すのは、書の筆法にも通じる墨線の肥痩と潤渇、画面の疎密によるそれぞれの対比のためであろう。そこには、筆墨に託した文人の墨戯の本領が垣間見える。
筆者の郭畀(かくひ)(1280~1335)は江蘇京口(現在の鎮江)の人で、字は天錫、思退と号した。延祐元年(1314)の科挙に及第せず、学官となって文人や禅僧との交友を娯しみ、書家としても知られた。
本図の款識によれば、本図は無聞師(むもんし)なる禅僧のために描かれたもの。賛の五言絶句は枯木と緑竹のそれぞれに宿る霊気を詠むが、両者の組み合わせは南宋・金から元時代の文人社会で広く流通していた。本図の構図自体は、金の王庭筠(おうていいん)筆「幽竹枯槎図巻(ゆうちくこさずかん)」(藤井有鄰館蔵)を左右に反転させたものである。
画中の鑑蔵印は、明時代屈指の書画収蔵家・項元汴(こうげんべん)(号は墨林)をはじめ、多数にのぼる。そのなかの一人、明時代後期の李日華(りじっか)は、「元郭畀字天賜、為無聞老禅、写叢篠於古檜之根、檜横挺一禿幹、千力万気、如夜叉臂、奇作也」と記した(『六研斎筆記』巻二)。巻尾には、乾隆53年(1788)に考証学者の翁方綱(おうほうこう)が書した跋文がある。本図が歴代の文人社会でいかに鑑賞されてきたのか、その一端がうかがえよう。朝日新聞社創業者の一人、上野理一(うえのりいち)の蔵を経て、京都国立博物館に寄贈された。