クエンティン・マサイス

1466年~1530年

クエンティン・マサイスは、フランドルの画家。その生涯を通じて、主に宗教画、風俗画、肖像画等を多く描き、その作風はイタリア・ルネサンスと北方ルネサンスとの融合といえる。
1465年あるいは1466年にルーヴェンで生まれ、父親は腕の立つ鍛冶屋であった。1507年に完全に独立した画家となるまでのマサイスの経歴には不明な点が多い。おそらくはルーヴェンのディルク・ボウツの工房で修業した。1491年にアントワープに移り同地の画家組合に親方として登録、この頃より大画家としての名声を得た。1492年頃に最初の妻と結婚し、3人の子をもうけた。1508年に再婚し、さらに10人の子をもうけ、その中にはフォンテーヌブロー派の影響を強く受けた画家ヤン・マサイスがいる。同名の孫クエンティン・マサイスもやはり著名な画家である。1530年に疫病で没した。
マサイスは、当初はウェイデン、ボウツ、グースらの影響を受けた宗教的題材を描いていたが、次第に風俗的絵画へと移っていった。画風も技巧的で優雅なものとなり、アントワープにおける代表的なマニエリスム様式の画家になった。マサイスがイタリア絵画、特にダ・ヴィンチに深く傾倒していたのは明らかであり、それは例えばスフマートの技法やカリカチュア、肖像画の構図に見て取れる。またファン・エイクの伝統的手法からも多くを学んでいたようである。晩年には画力の衰えが見られ、絵に感傷的傾向が強まっていった。
マサイスの風俗画には、道徳教訓的な内容がしばしば見られる。いわゆる人間の不徳、生命の儚さの告発であり、マサイスは絵画史におけるこのジャンルの開拓者とみなされている。例えば代表作『両替商とその妻』や『不釣り合いなカップル』は、エラスムスの著作との関連が指摘される。後者のモチーフは、『痴愚神礼讃』の一節「小娘に惚れこんで、うぶな若僧そこのけの狂気沙汰をやってのける」にあたるものである。またそれらの風俗画にはグロテスクへの偏愛が見て取れ、ダ・ヴィンチと同じく若者と老人の組み合わせに妙味を感じていたようである。
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