チューリップ・バブル

1636年~1637年

チューリップ・バブルは、オランダ黄金時代のネーデルラント連邦共和国において、当時オスマン帝国からもたらされたばかりであったチューリップ球根の価格が異常に高騰し、突然に下降した期間を指す。
チューリップ・バブルのピーク時であった1637年3月には、1個当たり、熟練した職人の年収の10倍以上の価格で販売されるチューリップ球根も複数存在した。1619年から1622年にかけて、三十年戦争の戦費調達のためにヨーロッパ全体で行われた貨幣の変造「Kipper- und Wipperzeit」にも、バブル経済類似の熱狂が存在したと指摘する研究者もいるものの、チューリップ・バブルは、記録に残された最初の投機バブルであると一般に考えられている。「チューリップ・バブル」という語は、今日では、資産価値がその内在価値を逸脱するような大規模なバブル経済を指してしばしば比喩的に用いられる。
1637年の出来事は、1841年に英国のジャーナリスト、チャールズ・マッケイによって著された『Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds』において、広く知られるようになった。マッケイによれば、ある時には、「Semper Augustus」の球根1個に対し、12エーカーの土地との交換が申し出られたという。マッケイは、このような投資家の多くはチューリップ価格の下落により破産し、オランダの商業は大打撃を受けたと主張する。マッケイの著書は古典ではあるが、その記述には異論もある。現代の研究者の多くは、チューリップに対する熱狂はマッケイが記載したほど異常なものではなく、チューリップ球根に関しバブルが実際に発生したことを証明するのに十分な価格のデータは存在しないと主張している。
チューリップ・バブルの研究は困難である。1630年代の経済のデータは限られており、その多くはバイアスがかかりまた非常に推測含みの情報源からのものであるためである。現代の経済学者には、チューリップ価格の上昇および下落につき、投機的な熱狂ではなく、合理的な説明を行おうとする者もいる。例えば、ヒヤシンスのような他の花もまた、初めて伝播した時点では高い価格がつけられ、すぐに価格が低下したことから、花の価格にはこのようなボラティリティがあるのだという説明がある。このほか、買い手のリスクを低減させる効果を持つ議会令が発せられるだろうという市場参加者らの期待が、価格の高騰を誘発した可能性があるという説明もある。
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