デズモンド・ムピロ・ツツ

生誕: 1931/10/07 年

デズモンド・ムピロ・ツツは、南アフリカの聖公会牧師であり、反アパルトヘイト・人権活動家として知られる神学者。1985年から1986年にかけてヨハネスブルク主教を、その後1986年から1996年までケープタウン大主教を務めた。この二つの叙任は、これらの地位に黒人男性が就いた初めてのケースであった。神学的には、彼は黒人神学とアフリカ神学の融合を目指し、政治的には社会主義者を自認していた。
コーサ人とモツワナ人の混血児としてクラークスドープの貧しい家庭に生まれ、少年時代には南アフリカ各地を転々とした。成年時代に入ると教師としての教育を受け、ノマリゾ・レア・ツツと結婚し、複数の子供を儲けた。1960年、彼は聖公会司祭に任命され、1962年にはキングス・カレッジ・ロンドンで神学を学ぶためにイギリスに渡った。1966年に南アフリカに戻り、南アフリカ連邦神学校で教職を務め、その後ボツワナ・レソト・スワジランド連合大学に移った。1972年には神学教育基金のアフリカ担当理事となった。この地位はロンドンに拠点を置いていたが、定期的にアフリカ大陸を周る必要があった。1975年に南アフリカに戻ると、彼は当初首席司祭としてヨハネスブルクのセント・メアリー大聖堂に務め、続いてレソト主教となり、南アフリカの人種隔離と白人少数派による支配構造であるアパルトヘイト制度に対する抵抗運動で積極的な役割を果たした。1978年から1985年にかけて、彼は南アフリカ教会協議会の総書記となり、南アフリカで最も著名な反アパルトヘイト活動家の一人として浮上した。彼は国民党政府に対してアパルトヘイトが人種的暴力に繋がると警告しているが、活動家としては非暴力抵抗運動と、アパルトヘイト政策を変えさせるための外国からの経済的圧力を重視した。
1985年、ヨハネスブルク主教となり、1986年には南部アフリカ聖公会の序列において最上位であるケープタウン大主教となった。この地位で、彼は合意形成を促すことで統率力を発揮するリーダーシップモデルを重視し、女性司祭の導入を監督した。また、1986年には全アフリカ教会会議の総幹事になり、その結果更にアフリカ大陸を周遊することとなった。反アパルトヘイト活動家ネルソン・マンデラが1990年に監獄から解放され、デクラーク大統領とアパルトヘイトの終了について交渉した後、新たな政府をツツは支援した。交渉の間、彼は競合する黒人組織の仲介役を果たした。マンデラはツツを真実和解委員会の議長に選び、過去の人権侵害を調査させた。アパルトヘイトの崩壊の後、ツツは同性愛者の権利を訴えるキャンペーンを行い、パレスチナ紛争、イラク戦争への反対、南アフリカ大統領タボ・ムベキとジェイコブ・ズマへの批判などの幅広い主題について意見を述べた。そして2010年に公職から引退した。
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“Children are a wonderful gift. They have an extraordinary capacity to see into the heart of things and to expose sham and humbug for what they are.”

デズモンド・ムピロ・ツツ
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