セルゲイ・ウィッテ

1849/06/29~1915/03/13

セルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテは、帝政ロシア末期の政治家。セルギウス・ウィッテの名でも知られ、姓はヴィッテとも表記される。
鉄道会社勤務から政界に登用された異色の経歴をもち、ロシア帝国運輸通信大臣、大蔵大臣、大臣委員会議長を歴任し、1905年10月20日には初のロシア帝国首相となってロシア初の憲法となる1906年のロシア帝国国家基本法の設計者のひとりとなった。蔵相としては金本位制の採用やシベリア鉄道をはじめとする鉄道建設などによりロシアの工業化に貢献した。日本や清国との外交交渉でも活躍し、日露戦争の講和交渉にはロシア側全権として当たり、日本側の外務大臣小村寿太郎と折衝を重ね、ポーツマス条約成立により伯爵の爵位を得た。彼の著した回想録『ウィッテ伯回想記』はロシア激動の時代の史料として重要である。
イギリスの歴史家、オーランドー・ファイジズは彼について、「1890年代の偉大な財政改革大臣」であり、「ニコライ2世の諸大臣中もっとも賢明な一人」であって、また、1905年におけるロシアの新議会制度の生みの親であると叙述している。
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