日本橋から築地、そして豊洲へ 歴史の証人である市場の日々

魚市場の歴史を歩いてみよう:日本橋から築地、そして豊洲へ

中央市場風景(1961)出典: 中央区立京橋図書館

世界最大の取引高を誇り、通称「築地市場」と呼ばれ親しまれた東京都中央卸売市場。2018年10月に豊洲へと移転し、華々しい新スタートをニュースで見守った方も多いのでは? 日本橋時代から400年以上にも及ぶその歴史を紐解いてみると、見えてきたのは激動の日本史を体現する市場の姿でした。

食材を路上で売っていた江戸時代から、海外からも観光客が訪れる日本の名所になるまで、市場ではなにが変わり、なにが守られてきたのでしょうか。知っているようで知らない、市場の歩みを遡ってみましょう。

日本橋魚河岸の混雑(1923)出典: 中央区立京橋図書館

青空市から近代市場へ、国をあげての「脱皮」計画

江戸の商いの風景は今とはまったくの別物でした。徳川幕府が統治する、江戸時代が始まったのは1603年。その頃、江戸城のほど近くに日本橋魚市場も自然発生的に姿を現します。そんな動きを牽引したのは、幕府のお魚納入役として大阪から呼び寄せられた森孫右衛門とその一族でした。彼らが幕府に納めた収めた魚の余りを、市中で売り始めたのが日本橋魚河岸のスタートと言われています。

築地魚市場、鮪入荷(1957)出典: 中央区立京橋図書館

「当時は江戸なんて田舎。文化でも商売でも中心地は関西だったので、大阪から技術科集団を呼んだんです」と説明してくださったのは、市場や水産関係の資料や書籍を管理している『築地魚市場銀鱗会』の福地享子さん。築地市場に惹かれ、畑違いのモード誌から水産仲卸店に弟子入りしたというユニークで頼れる博識家です。

「幕府の後押しもあって巨大市場に成長した魚河岸ですが、明治時代に入ると、苦難が始まります。日本橋という一等地で、江戸時代のまんまの施設で魚をうりさばく魚河岸は、近代化をめざす時の指導者にとっては見過ごせない姿でした。そこで、移転して、新たな市場作りを、魚河岸に命じます」

新1万円札の顔となる実業家の渋沢栄一などは、移転推進の急先鋒。銀行や郵便局といった近代化の象徴の隣にある旧体制の日本橋魚河岸は「目の上のたんこぶ」でした。「しかし、移転問題は膠着状態のまま、大正時代に入ってしまいます。新旧の問屋の利害関係もあるし、第一、食べ物を扱う商いは、人々の生活に密接に関係しているだけに、なかなかメスをいれられなかったのよね」しかし、一気に時代を動かす出来事が起こります。関東大震災です。

関東大震災後の日本橋魚海岸の焼け跡(1923)出典: 中央区立郷土天文館「タイムドーム明石」

街の景色が、旧体制と共に崩れたとき

1923年9月、関東大震災として知られるマグニチュード7.9の巨大な揺れが、都市機能をほぼ壊滅させました。

「魚河岸もほぼ壊滅状態でしたが、これが近代的な公営市場へ脱皮する契機ともなりました。市場法という市場運営のための条例を作り、衛生面を考えた施設の中で取引するという近代的な市場作りですよね。

こういう発想は、明治以降、欧米からやってきました。それまでの日本には、取引する施設、マーケットプレイスを設ける発想なんてなかった。当時の著名な文化人さえ、マーケットプレイスがイメージできず、延々と議論していたくらいです」

中央卸売市場出典: 中央区立京橋図書館

震災後の帝都復興計画で、最大の要とされた築地市場の建設。海外視察へ赴いたのは、建築家やエンジニアのみならず、魚河岸の問屋の主人まで様々。アメリカ、ドイツやイタリアなど、各国の素晴らしい点をつぶさにとらえた観察眼は、建築にもいかされていきます。耐震という日本における必須条件もクリアした、文化人や技術者たちの知恵と研究、そして理想が詰まった市場が完成します。

築地市場 工事半ばの光景農林水産省

「プラットホームとか、往年の米女優、ローレン・バコールを歩かせたいくらいかっこよかったの」と福地さんは続けます。

「設計の参考にしたのはイタリアのミラノ、NYのブロンクス、ドイツのライプチッヒなど。設計を担当したのは、東京大学を卒業したばかりの技師。若々しい才能により、扇型の市場が作られます。機能を優先させながらも、デザインにも目配りする。当時、欧米を席巻したデザイン、バウハウスの雰囲気を感じさせる場所もありましたね。2018年に豊洲に移ったのちに解体が始まり、特徴的な扇形の建物は姿を消してしまいました。オリパラののちに再開発が始まりますが、建物の一部だけでも復活できると素敵ですよね」

本館廊下農林水産省

2018年に豊洲に移ってしまってからは、今は日本建築学会が建築の一部を保存しているのみでなくなってしまったのが寂しいですけどね」

都民の台所(1962)出典: 中央区立京橋図書館

商いは水物。戦争のあとには好景気がくる

中央卸売市場として築地市場の開会が宣言されたのは1935年。大根河岸と呼ばれる青果市と一緒に総合市場としてスタートを切りましたが、様々な人の思惑が渦巻く「脱皮」だったためボイコットや不買運動なども経験します。そんななか、暗い戦争の足音は、確実に忍び寄ってきていました。

やっと開場できたのに、悲劇ともいえますよね」と福地さん。「中央卸売市場を作ろう、という当初の目的は、国民の食生活の安定のためでした。それがいつの間にか戦争を見据えた食糧供給の拠点へと変わり、実際に戦争が始まると、徴兵で、たくさんの市場人も戦場へ出征しました。

やっと終戦を迎えても日本は慢性的な飢えに苦しみ、市場はアメリカのGHQの支配下に置かれます。でも市場人はたくましい。朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、高度成長期に入ると、一気に景気は上向きに転じます。当時もマグロは、市場の華。卸会社は自前のマグロ船を持っており、岸壁はマグロで埋まるほどだったといいます」

築地場外市場 -初荷風景-(1963)出典: 中央区立京橋図書館

その一方で、鉄道ありきで作られた市場の構造、高度成長による取扱量の増大により、市場施設はキャパオーバーとなり、移転がささやかれ始めます。築地市場の移転問題は、すでに1960年代には始まっていたのです。

「その当時の築地は雰囲気も荒っぽいプロの場で、一般のお客さんも街にいいお魚屋さんがたくさんあったから市場に来ることはほぼなかった。一般の買い物客や海外からの観光客が増え始めたのは、2000年以降の規制緩和や地下鉄の駅ができてから。
観光客の皆さんが喜ぶお寿司屋さんが増えて「寿司の町」になっていきました。

日本橋魚がし旧天王祭団扇投之図(1889)出典: 中央区立郷土天文館「タイムドーム明石」

仲間とともに祝う祭事は「季節の句読点」

波乱万丈の昭和史のなかで、変化を遂げていった築地市場。しかしその歴史のなかで変わらないものもあるのでしょうか? 

「『仲間』って今は恥ずかしくて使えない言葉だけれど、この市場では使うの。一軒一軒のお店は小さくて家族経営が多いからこそ、市場全体が仲間という意識があるんです。

例えば、日本橋魚河岸から受け継がれている『仲間買い』。売り切れでお客さんに魚を提供できない場合、仲間の店から分けてもらって売る慣習なのだけれど、私も知った時には驚いてしまって。世間一般ではライバル同士なのに、ここでは『持ちつ持たれつ』で助け合うのが当たり前。

足の引っ張り合いより、お互いに手をつないで繁栄していくことを、この市場は選んだんだと思います。また真の目利きがいるのも、築地ならでは。お魚の鮮度を当てたりするのは何年か取り組めば誰にでもできるけれど、時代を読んでなにをどう売るかを見極められるのが真の目利きね。そういう商売を俯瞰で見られる人が、この市場ではトップになるんですよ」

波除神社の大祭農林水産省

そんな仲間たちが集い、お互いを労いながら行われる季節の祭事も、市場名物の光景です。魚河岸の商売人たちが心待ちにする、魚河岸水神社での祭りを始めたのは森孫兵衛門。日本橋魚河岸から今に続いています。

「施設や場所は変わっても、人の心は変わらないと思うの。水神のお祭りもフグ供養にしても、生き物を商いとしている。生き物への「畏れ」を大切にしているんだと思います。さらにいうと、仲間との交流という側面や、日常のけじめという意味もあると思う。市場の商いは賑やかに見えるけれど、一旦中に入るとある程度のルーティーンがあります。

そんななか、皆で頑張って売った年末の最後を一本締めで締めたり、お正月に初荷の飾りを出したりするのは、「季節の句読点」でもあると思うの。市場は、そこに行けば皆がいるという結束の場でもある。日本橋から築地、築地から豊洲へ場は移っても、日本の心のありようが変わらない限りこれからも残っていくと思いますよ」

提供: ストーリー

協力:
築地魚市場銀鱗会
SAVOR JAPAN

参考資料:
「築地市場 クロニクル完全版1603-2018」(福地享子著 朝日新聞出版 2018年)

執筆:大司 麻紀子
編集:林田 沙織
制作:Skyrocket 株式会社

提供: 全展示アイテム
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