ファッションのジャポニスム

京都服飾文化研究財団

ファッションを変えた日本のきものとそのデザイン

日本への熱狂
19世紀後半、西洋各地で開催された万国博覧会を通じて、キモノは女性たちの憧れとなり、1890年代のリヨンのテキスタイルには、日本の意匠が頻繁に登場しました。20世紀初め、ファッションが現代の解放的なものへと脱皮しようとしたとき、キモノはシンプルな形とゆとりという点で、ファッションに大きな影響を与えます。
異国趣味
19世紀後期、日本から渡った着物や染織品に西洋の人々は魅せられました。女性たちは、日本の着物地や着物をほどいたものをドレスに仕立てたり、着物を室内着として着用します。江戸時代末期の上流武家階級の女性の着物は、特に好まれたものの一つ。

日本から欧米へ輸出されたキモノ風室内着。桜と孔雀の大胆な刺繍、脇に嵌め込まれた三角形のマチ布、裾に向かって緩やかに広がった身頃、カーブした衿など欧米市場向けにアレンジされています。

長い鎖国から開国した日本にとって、貿易振興は大きな課題でした。横浜開港の1859年から絹は主要な輸出品でしたが、より付加価値の高い絹製品の輸出も望まれていました。横浜の絹物商人、椎野正兵衛らが73年のウィーン万国博覧会に派遣されます。羽二重にキルティングを施した室内着は市場調査の結果の品でした。

1867年のパリ万国博覧会に薩摩藩は幕府、佐賀藩と共に参加。それ以前から海外に注目していた薩摩藩は、1860年頃から輸出向けに薩摩焼きの釦を作り始めています。花型や六角形、大型のものなど、19世紀後半から20世紀初めまで欧米で数多くのサツマ釦が流通しました。

素材は広幅織の日本製絹揚柳。典型的な日本の文様と軽やかな素材が当時流行のドレスに仕立てられています。パリの高級衣装店ドゥーセの当時流行していた“日本”への視線を示す極めて興味深い作品。

文様
スカートに大胆に施された陽光と雲のデザインには、日本の美術・工芸品に特徴的な非対称性が見てとれます。19世紀後期、ジャポニスムの隆盛を背景に着物やそのデザイン見本帳である「雛形」が西洋に渡りました。そこに示された日本の文様や左右非対称の構図は、パリ・オートクチュールにも新しいデザインとして吸収されていきました。

日本のモチーフである兜と桜が垂直に配され、モチーフは絹糸で織り出された別布をコード刺繍でカシミアの上にアップリケした、非常に手がこんだもの。対をなす横向きの兜は、西洋的なシンメトリーにレイアウトされています。

19世紀半ば、日本から西洋にもたらされた菊花はジャポニスムの流行を背景として人気が高まり、1880年頃にはヨーロッパ各国に菊協会が生まれます。さらに、87年にはピエール・ロチの『お菊さん』が出版されて欧米でベストセラーになると、「菊=日本」というイメージが形成されていきます。

本品のテキスタイルは、『芸術の日本』(1888年第2号)に掲載され、後に『エトフ・ジャポネーズ』(1910年)にも掲載された紋織ビロードの日本の帯地(現在、その帯地はパリ装飾美術館に収蔵されている)とほとんど同じデザイン。本品ではステンシル・プリントで柄を表現していています。

煌びやかな表面装飾と直線的なシルエットが、続く1920年代を予感させる作品。鱗文様、あるいは青海波文様は、幾何学的形態を好むアール・デコの文様として20年代に繰り返し用いられました。

蒔絵を思わせる連山のような柄がボーダー状に織り出されたテキスタイル。アーサー・L・リバティが1875年に開店したリバティ商会(開店当初は「イースト・インディア・ハウス」)は、美術工芸品の他、日本や中国をはじめとする絹地を販売。とりわけテキスタイルの評判が高く、パリの有名デザイナーたちにも採用されました。

抜き衣紋、打合せ、着物の着装時に作り出される後腰のゆるやかなドレープなどが、西洋的な立体裁断によって効果的に表現された興味深い例。1907年頃から、着物のディテールを模したファッションが流行する。

パキャンは1907年に着物の裁断方法を取り入れた「マントー・ジャポネ」を製作。日本、中国といった東洋のイメージを持つ作品が多い。本品は柄に古典的な西洋の花柄を用いつつ、形は袖や裾にゆとりをもたせるなど、着物の影響がうかがえます。

ポワレが「キモノ・コート」と呼んだ作品。直線的な裁断。ウエストから肩へと支点が移動した新しいシルエットのワンピース・ドレスと共に発表されたのが、本品に見られるゆるみの多いシルエットのコートでした。

一枚の布によるシンプルな裁断で作られたショール風のコート。1910年から13年頃にかけて、多くのメゾンが、後ろ身頃にたっぷりとゆとりを持たせたコートを発表。着物の抜き衣紋を意識した衿足を見せるデザインが多く見られました。

ボーべ刺繍による細かいチェーン・ステッチで、籬に菊、雄鶏、松、水文、雲、滝といったモチーフを描き出したウール・コート。ポワレはこのコートを「マンダリン」と名付けました。本来、「マンダリン」は中国清朝の高級官吏を意味します。中国と日本とは必ずしも明確には区別されていませんでした。

ベルト背面には大きなボウをあしらって着物の帯のような効果を出し、黒、赤、金色の色使いも日本の漆細工を思わせます。1920年代、異国趣味の淵源はロシア、エジプト、南米、中国、日本へと広がりました。オートクチュールの老舗ランヴァンは、日本的な色彩やモチーフを積極的に採用しました。

金銀の布で市松文風にパッチワークされた前後のパネルは、日本の漆や蒔絵のデザインと質感を思わせます。ヴィオネは日本の着物や美術に興味を持ち、そこからアイディアを得たと思われるものが、1920年代初めの作品に多く見られます。

早くから身体の解放を目指していたヴィオネは、日本の着物の直線的な形態に啓示され、1910年代後半から着物の構造に目を向けた衣服制作を展開。女性の身体性を際立たせる衣服の構成に新たな解釈を持ち込みました。

日本のファッション・デザイナー
日本の伝統的な絹織物の一種、しぼの強い鬼しぼ縮緬を使用したワンピース・ドレス。森英恵は、日本ファッションを海外へ発信しようとした先駆的存在の一人でした。1965年のニューヨークでの作品発表にむけて、日本の伝統とはと考え、たどり着いたのが着物の生地でした。

1964年に渡仏した高田は急成長していたプレタポルテのデザイナーとして、70年、パリで自身のブランドを立ち上げます。日本の庶民的な着物地で作った服が『エル』誌(1970年6月15日号)の表紙に掲載されて、彼は瞬く間に時代の寵児に。日常性、気取りのなさ、そして日本の服という周縁性を持つ高田のデザインは「五月革命」後の時代の精神に一致するものでした。

パリ・オートクチュールに学びながら、三宅は、プレタポルテという新しいファッション・システムによって、世界の多くの人のための〈服〉を日本から打ち出そうとしました。ロックと刺青、若者文化と伝統的な庶民文化のクロスオーバーには、彼の主張と時代性が強くにじみ出ています。

三宅は1973年から参加したパリ・コレクションで、当時の日本でも置き去りにされかかっていた伝統的な日本の素材に光を当て、それを日常着の機能的な美しさの中に生き返らせようとしました。日本の繊維産業に立脚した新しい服作りは西洋でも高く評価され、後の日本人デザイナーたちにも多大な影響を与えます。

川久保は、1980年代はじめ、無彩色、ぶかぶか、アシンメトリー、意識的な穴や破れを施した、西洋の既存の美意識を覆す作品によってパリで賛否両論を巻き起こします。その後も、既成概念にとらわれないという一貫する姿勢を服に具現化していきました。

1982年に山本がパリで発表した際、欧米のメディアを一斉に注目させた穴あき服の一つ。山本は「一生に一着しかない服が生活していくうちにはぎ合わされ、日や雨にさらされ、ほつれていく、無意識の美、自然の美しさを持つ服を作りたかった」と語りました。

三宅は1993年、「プリーツ・プリーズ」を発表。サイズ・フリーで、脱げば平面へと還元され、軽く、皺にもならず、リーズナブルな価格。多忙な現代女性がまさに夢みる服です。

二重になったストレッチ素材にパッドを内蔵したドレス。身体の線と服が一体化する「ボディ・ミーツ・ドレス ドレス・ミーツ・ボディ」コレクションの一点。川久保は、身体が服を縛る、服が身体を縛る、といった互いの発展を封じる停滞した関係からの脱出を試みて、本品に見られる新鮮な造形美を作り出し、世界に衝撃を呼びました。

地の目に沿った布使いで、布を身体に沿わせながらねじり、巻き付けた独自の構成。ダーツやカットといった従来の技法は使われていません。服作りに抜群の技術を持つ山本らしい作品。

提供: 全展示アイテム
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