「産業」と「芸術」という2つの顔を持つ陶産地

信楽焼のはじまり
滋賀県南部の甲賀市信楽町は、日本有数の窯業地。開窯時期は他の中世古窯と比較すると遅く、鎌倉時代後期(13世紀後半)であると考えられています。日本屈指のやきもの産地になり得たのは、なんといっても作陶に適した良質の土が採れたことが大きな要因でした。花崗岩質の土は、コシが強く成形しやすい。有機物を多く含んでいることから、ざっくりとした質感を生み、不純物を取り除くと滑らかで乳白色の土となります。
信楽周辺地域は、琵琶湖の前身である古琵琶湖(こびわこ)が隆起してできた古琵琶湖層の上にあります。現在の三重県伊賀付近に約400万年前に誕生した古代湖「大山田湖」が長い年月をかけて現在の琵琶湖の位置に移動してきました。その過程で、湖の底に土砂や動植物の残骸などが堆積したのが古琵琶湖層で、やきものに適した土として信楽焼に用いられているのです。 信楽は人々が暮らす集落を山々が囲んでいます。山の斜面は窯を築くのに適し、窯の燃料となる薪を得ることもできます。まさになるべくしてやきもの産地になった場所が信楽といえるでしょう。
中世の信楽焼 《壺・甕・鉢》
13世紀から16世紀にかけての信楽窯の生産品は、他の中世古窯と同じく壺・甕・鉢の3種。いずれも当時の農業生産の発展を背景として、農耕を行う民の間で需要が増大した生活のための器種でした。
手捻り
成形法は「手捻(てびねり)」です。回転台(ロクロ)の中央に粘土塊を置き、丸く平らになるよう回転させながら叩き締めて器の底部をつくります。その上に紐状にした粘土を輪積みし、指で練りつけて接合しながら器を形作っていく方法です。焼成は、釉薬をかけずに高温で素地を焼き締める「焼締陶器」で、薪を燃料とする穴窯で焼成されました。耐火度が高い信楽土は高火度焼成にも耐え、素地が堅く焼締まるのです。
信楽焼の茶陶
室町時代後期(15世紀後半)には、信楽焼の歴史に大きな転機が訪れました。日常器として使われてきた信楽焼が、茶の湯の道具として用いられるようになったのです。室町後期には自然素朴な美意識をとり入れて日本独自の「侘茶(わびちゃ)」が展開しました。侘茶の道具のひとつとして、茶人たちが目をつけたのが和物陶器です。彼らは素朴な日常陶器に美を見出し、水指や花入などに見立てて茶の道具に用いました。 信楽焼は備前焼と共に、最も早い時期に茶の湯に用いられた和物陶器のひとつとされています。室町時代後半から桃山時代かけて、奈良や堺の茶人たちが開いた茶会の記録からは、水指を中心に信楽焼の茶道具が度々用いられていたことがわかります。しかし17世紀後半になると備前焼などの茶陶が流行する陰で、信楽焼が用いられることが少なくなっていったようです。
江戸時代の信楽焼
江戸時代前期(17世紀)頃になると、連房式登り窯が導入されて生産量が増大しました。当時17世紀は全国的に施釉陶器(せゆうとうき・釉薬を施した陶器)が広まり始めた時代です。信楽でも17世紀後半から施釉陶器の焼成が始まり、18世紀中頃になると焼締陶器から施釉陶器へと移行していきます。最も早い時期の信楽の施釉陶器は17世紀前半の「腰白茶壺」で、将軍家に献上する宇治茶を詰めるために作られた、いわば特殊製品でした。
江戸時代から明治期にかけては甲賀郡信楽郷の長野村で茶壺や大甕などの大物の陶器が作られます。
その他の村では土瓶、燗徳利、茶碗、神仏具、灯明具などの小物陶器を生産しました。
中でも京焼風の煎茶碗「小杉碗」や「丸碗」は、東北から九州まで広く流通したのです。
近代の信楽焼
明治維新後、火鉢、糸取鍋(生糸の生産具)、便器が信楽焼の主産品となりました。中でも火鉢は、大正期から昭和前期にかけて大ヒットします。他産地のものに比べて急熱急冷に強く品質が高いという特徴が好評となり次第に売り上げを伸ばしました。太平洋戦争後の間もない昭和20年代(1945~54)以降、特にその需要が伸び、信楽の町は「火鉢景気」に沸いたのです。しかし昭和30年代に入ると、ストーブの普及と共に火鉢の需要が衰退します。そこで信楽では観葉植物の流行に目をつけ、主製品を植木鉢に移行します。その植木鉢も、後にプラスチック製の鉢におされて衰退。すると今度は傘立てが人気商品となりました。
太陽の塔: 過去の顔
昭和30年代中頃からは、タイルを始めとする建築用陶器の生産も始まり、現在も信楽焼の主産品となっている。1970年の日本万国博覧会(大阪万博)のために制作された芸術家・岡本太郎(1911~96)作「太陽の塔」の裏の顔は、信楽のタイルメーカーのサポートにより、当時の技術を駆使して制作されたものなのです。人々のライフスタイルの変化に力強く対応し、少しおおげさな言い方かもしれませんが、信楽焼は土で作れるものは全て作ってきたのです。
信楽たぬき
日本人の多くが信楽焼といえば「たぬき」を連想するでしょう。酒買小僧スタイルのたぬきの置物「信楽たぬき」は、全国的に有名です。信楽たぬきが全国的に有名になった理由はいくつかあげられる。まずは昭和前期頃から初代狸庵(藤原銕造:1876~1963)をはじめとするたぬき作りを専門の陶工が活躍したことであります。
次に、昭和26(1951)年の昭和天皇の信楽行幸です。信楽では陶器産地信楽らしいお出迎えをしたいと、主力製品である火鉢を積み上げてアーチをつくり、日の丸の旗を持たせた信楽たぬきを並べて奉迎した。それを見た昭和天皇は喜ばれ「おさなとき あつめしからに なつかしも しがらきやきのたぬきをみれば」と歌に詠まれた。これが報道を通じて全国的に注目されるようになった。3つ目には、たぬき文化研究家・石田豪澄(1910~2005)が伝承をベースに考案した「信楽狸八相縁起(しがらきたぬきはっそうえんぎ)」がある。石田氏の勧めで信楽の陶器店が「信楽狸八相縁起」のしおりをつけて販売したところ、たぬきの置物が縁起物として好まれるようになったのである。
昭和の信楽焼 《伝統技法復興と名工の活躍》
昭和5(1930)年に、岐阜県可児市の牟田ケ洞古窯跡で桃山時代の志野茶碗の陶片が発見されます。新たな陶磁史が判明したことで、人々の古陶磁への興味が高まります。各地のつくり手たちは桃山陶に魅せられ、古典復興に取り組むようになりました。 信楽でも古信楽の復興に熱い眼差しを向けた二人の陶工がいました。三代高橋楽斎(1898~1976)と四代上田直方(1898~1975)です。彼らによる桃山陶器風の焼締陶器は「へちもん」と呼ばれ、地元ではほとんど注目する人はいなかったといいます。
二人はあきらめずに技法の再現に取り組み、その独自の信楽焼の制作により、昭和39(1963)年、滋賀県指定無形文化財信楽焼技術保持者に認定されました。二人の活躍は後進たちにも影響をあたえ、1970年代に入ると、信楽では、古信楽の伝統技法を受け継ぐ多くの作家が活躍するようになりました。1980年代後半頃からは、現代美術の一ジャンルとしてやきものを素材に自由な造形作品を制作する作家達が活躍するようになり、現在に至っています。
焼締陶器・信楽焼の見所 《火色・緋色》
焼成時の窯中の位置、炎の廻り、湿度、酸素量、素地土の成分の違いで、やきものの素地に含まれる鉄分が、火の色のようなほんのりと赤褐色を呈します。
焼締陶器・信楽焼の見所 《自然釉》
焼成中に窯中の温度が1250℃から1300℃前後になると、薪の灰に含まれるアルカリや石灰などの成分が素地中の珪酸と反応し、共に溶けてガラス質に変化します。これを自然釉といいます。
焼締陶器・信楽焼の見所 《蟹の目・霰》
信楽土に多く含まれた長石は、窯中の温度が1250℃から1280℃になると溶けて、白いガラス状の粒となって土の表面に表れます。その様が蟹の目のように見えることから「蟹の目」と呼びます。また「霰」ともいわれます。
立命館大学アート・リサーチセンター 協力:京都女子大学
提供: ストーリー

資料提供: 滋賀県立陶芸の森 宇治市歴史資料館 甲賀市信楽伝統産業会館 岡本太郎記念館万博記念公園

監修&テキスト : 大槻倫子 ( 滋賀県立陶芸の森

写真: 杉本賢正

編集: 山本真紗子(日本学術振興会特別研究員)、 前﨑信也 ( 京都女子大学

英語サイト翻訳: 黒崎 美曜・ベーテ

プロジェクト・ディレクター: 前﨑信也 (京都女子大学 准教授

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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