1994年

手塚治虫記念館

手塚治虫

手塚治虫を育んだ宝塚市に作られた手塚治虫記念館。その館内を御覧いただけます。ミュージアムの中を散歩してみませんか?

手塚治虫は1928年、大阪府豊中市で生まれましたが、物心がつき始める5歳から多感な少年時代、そして大人への入り口に差し掛かる24歳までを兵庫県の宝塚市で過ごしました。

 今もオシャレでハイセンスな宝塚ですが、手塚治虫が暮らしていた当時もオシャレでモダンな宝塚大劇場や宝塚ホテルなどがあり、またすぐ近くに山や川といった豊かな自然が息づいていました。

 そういう街で手塚治虫はモダンでロマンチックな建物を見上げながら、『鉄腕アトム』で描いたような未来都市をイメージしたのかもしれません。また宝塚少女歌劇団と親しく接することで『リボンの騎士』に代表されるような王様や妖精やお姫様や盗賊といったファンタジーを自分の中に育んでいったのでしょう。近隣の豊かな自然の中に暮らす小さな昆虫や生き物たちを観察しながら、どんなものにもかけがえのない、そしてはかない命のきらめきを見出して行ったのです。それが『ジャングル大帝』の礎となったことは間違いありません。 

そして、この街で手塚は戦争も体験します。社会の矛盾や理不尽さ、そういった手塚漫画で繰り返し描かれる大人社会の歪みや平和への切望もやはり、この街で青春を過ごした手塚治虫だからこそ、だと思います。 

美しいものが破壊され、奪われ、焼き払われてしまう。その絶望。けれど焼き払われた大地から芽吹く、新しい命の力強さ。

 手塚治虫は、そういうことを漫画の中に描き続けました。

 たんに手塚治虫が暮らしたことのある街、というだけではなく、すべての手塚漫画の根底に流れるテーマを与えた街として、彼の業績を記念するミュージアムがこの宝塚市に作られたのです。

「自然が僕にマンガを描かせた」

常設展1

「宝塚と手塚治虫」

このコーナーでは手塚治虫の生い立ちを振り返りながら、絵を描くことが好きで得意だった手塚少年が、やがて本格的な創作活動にのめり込み、プロの漫画としてデビューしていくまでの、その軌跡をご覧いただけます。

手塚治虫 お宮参り

■誕生

手塚治虫は1928年(昭和3年)11月3日、手塚粲・文子夫妻の長男として大阪府豊中市に生まれた。その日が明治天皇の誕生日を祝う明治節であったことから「治」と命名される。

父・粲は住友金属に勤めるサラリーマン、母・文子は軍人の娘。父方の祖父・太郎は法律家、曾祖父・良庵はのちに「陽だまりの樹」で手塚が描いたように医者で、母方の先祖には忍者の服部半蔵がいる。粲の趣味はカメラや映画。文子は宝塚歌劇の大ファンでお話が上手。厳格な中にも、趣味的なにおいが強い家庭であった。 

■宝塚へ

 手塚が5歳のとき、一家は現在の宝塚市御殿山の山林のふもとに手塚太郎が別荘として建てた家に引っ越した。

今は住宅地となっている御殿山は当時は雑木林にきつねやたぬきがすみ、昆虫の宝庫だった。

また、宝塚歌劇やルナパーク、宝塚ホテル、宝塚ゴルフ倶楽部、ダンスホールなどがあるモダンな街でもあり、手塚マンガのモダニズムはここではぐくまれた。

「フクちゃんと魚釣」 ヒョウタンツギも描かれている

■萌芽(小学校時代)

 手塚は幼いときから絵の好きな子どもだった。きげんの悪いときでも、落書き帳を与えるととたんにニッコリとなって絵を描いていた。両親は子どもたちの枕元にいつも落書き帳を置いていたという。

1935年(昭和10年)手塚は大阪府立池田師範付属小学校(現在の大阪教育大学付属池田小学校)に入学する。

小学校に入学すると手塚は紙芝居やマンガを描いてクラスメートに読ませるようになる。小学校2、3年に描いた紙芝居には早くも「ヒョウタンツギ」が登場している。また、小学校3年生のときには「ピンピン生チャン」というページもののマンガも描いており、これは職員室でも評判になった。

5年生のころには図画などに甲虫の名からとった治虫(オサムシ)のペンネームも使い始めた。

「幽霊男(前編)」

■萌芽(中学校時代)

1941年(昭和16年)4月、手塚は大阪府立北野中学校(現在の北野高校)に入学。同年12月8日には太平洋戦争が勃発する。

中学生になった治は美術班に属して絵を学んだり、クラスの仲間と昆虫採集や科学雑誌の編集をしたりしながら多感な時代を過ごした。

マンガも試行錯誤の末に、墨とペンを使った本格的なものを描くようになり、中学時代の習作のひとつ「ロスト・ワールド」には「これは漫画に非ず小説にも非ず」という、のちのストーリー・マンガの誕生を予感させるようなまえがきも書かれている。

また、クラスメートのおじいさんをモデルにした「ヒゲオヤジ」が登場して、手塚のマンガの重要なキャラクターになったのもこの時期だった。

戦争によって時代はマンガどころではなくなっていくが、理解のある先生のはげましもあって、手塚はマンガ家への才能を花開かせていった。

「のらくろ伍長」(1937)  母・文子のパラパラマンガ「おむすび小僧」が左に描かれている

■手塚治虫と漫画

手塚治虫と漫画 • 手塚とマンガの出会いは早い。

父・粲は結婚前は自分でもマンガを描くくらいのマニアだった。結婚後は写真に興味を変えたが、部屋の書棚には北沢楽天など、当時のおとなマンガ家の全集がずらりと並んでいた。幼い手塚は父の部屋でそれらのマンガに触れたのである。

また、粲は東京・浅草の中村書店が子ども向きに発行していた「ナカムラ・マンガ」や田河水泡の「のらくろ」、横山隆一の「フクチャン」などを子どもたちに買いあたえた。

小学校時代の手塚は文字どおりマンガに囲まれるようにして育ったのだ。

■手塚治虫とアニメ

 アニメも父・粲の影響だった。

粲はフランス製の映写機を買って自宅で映画を楽しんでいた。フィルムの中にはディズニーの「ミッキーの突撃列車」もあった。

また、劇場へ家族で出かけてフライシャーの「ポパイ」やディズニーの「シリー・シンフォニー」などを観るのも恒例だった。

その後、空襲で焼け残った映画館で「桃太郎 海の神兵」に感動した手塚は、自分もアニメをつくりたいと考えるようになる。

「西遊記・鉄扇公主の巻(1942日本公開)」
「甲虫図譜」第1集

■手塚治虫と昆虫 

手塚が昆虫に興味を持つようになったのは小学校5年生のとき。クラスメートから見せられた「原色千種昆蟲図譜」という図鑑がきっかけだった。

その友人に誘われて昆虫採集に出かけるようになった手塚は、卒業するころにはすっかり一人前の昆虫マニアになっていた。

中学生になると、手塚がクラスの仲間を昆虫採集に誘うようになった。

彼らは、宝塚の御殿山や箕面公園などに昆虫採集に出かけたり、「昆蟲の世界」という肉筆回覧の会誌を発行したりする。

さらに、宝塚新温泉の中にあった「昆虫館」にひんぱんに通って専門家からの知識を吸収して、昆虫学者を夢見た時期もあった。

■手塚治虫と読書

手塚は少年時代から大の本好きだった。小説でも科学の本でも、歴史の本でも、与えられる本は片っ端から読んでいた。

読むスピードも驚異的で、小学校のときには片道20分ほどの通学電車の中で先生から借りた小説を読み切ってしまったこともあったという。

大人になってからも分厚い専門書を1時間ほどで、ちゃんと理解しながら読んでまわりを驚かせた。

速読でつぎつぎと読んでいった本や雑誌で得た雑多の知識が、汲めどもつきず、自分自身で「バーゲンセールをするほどある」と言わせるくらいに豊富だったアイデアのもとになったのである。

手塚治虫の本棚から
学位賞状

■手塚治虫と医学

手塚が入学した医学専門部は軍医や占領地の医師不足を解消するために戦時の臨時の医師養成機関として設置されたものだった。

手塚が医者への道を選ぶきっかけとなったのは、中学生時代に体の弱い子どもの錬成道場に入ったときに腕に入ったばい菌から両腕切断寸前までいったことがあげられる。

優秀な医者のおかげで助かった彼は、こんどは自分が医者になって人々を助けたいと考えたのだ。

医学生時代の手塚には教室の後ろで内緒でマンガを描いていたとか、大学病院の看護婦さんをアシスタントがわりにしたというエピソードも残っているが、52年には医師の資格を、61年には「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」で医学博士の学位を取得しているのである。

マァチャン人形と「マァチャンの日記帳」スクラップ

■はじめての仕事

医学生時代の手塚は、将来医者になるのか、マンガ家になるのかを迷いながらも、新聞社などにマンガを積極的に売り込んでいた。

それが実を結んだのが1946年(昭和21年)1月4日から「少国民新聞(現在の毎日小学生新聞)関西版」に連載された四コママンガ「マァチャンの日記帳」である。連載は好評で、当初1ケ月連載の予定が3ケ月に延長され、木製のマァチャン人形まで登場した。

こののち手塚は「京都日日新聞」などに連載マンガを発表。また、関西マンガ界のベテラン・酒井七馬が主宰する雑誌「ハロー・マンガ」(育英出版)にも四コマや短編を描くようになった。マンガ家・手塚治虫のデビューである。

「新寳島」(1947)

■赤本(描き下ろし単行本)

酒井七馬との出会いによって、手塚は酒井との合作単行本「新寳島」を執筆、当時40万部を超えるベストセラーとなった。

  そのヒットがきっかけになり、大阪では赤本マンガのブームがおこる。手塚は精力的に作品を発表して、1947年の「地底国の怪人」では、従来のマンガの枠を超えたストーリー・マンガの形式をほぼ確立。全国の子どもたちの人気を集めた。

「来るべき世界」らくがき予告

■構想ノート

手塚は10代のころから、ふと思いついたマンガのアイデアなどをノートにメモしておく習慣があった。メモはそのままマンガに活かされることもあれば、のちに新しいアイデアのヒントになることもあった。

また、演劇や映画の影響からマンガを描きだす前には台本をつくった。

1977年に手塚が書いた「マンガの描き方」(光文社)によれば、手塚の台本づくりは次のプロセスに分かれる。  テーマを考える→構想をつくる(ジャンル分けしておおまかなスジをつくる)→あらすじ(何がどうしてどうなったという簡単なもの)→箱書き(小説の状態)→シナリオ→キャラクター設定→考証。 

手塚にとって、これはなかなか楽しい時間だった。ときには誰に見せるでもない予告広告のらくがきまでつくっている。

常設展2

「作家、手塚治虫」

1946年、17歳の時に新聞連載漫画『マアちゃんの日記帳』でプロの漫画家としてデビューし、貸本漫画家(読み切り漫画を直接、一冊の本として貸し出して読ませる)となった手塚治虫はやがて大長編『ジャングル大帝』をひっさげて上京し、『鉄腕アトム』の大ヒットと共に一躍日本の漫画界におけるスーパースターとなりました。

そんな手塚治虫の業績と歴史を詳しくご紹介するコーナーです。

(新聞連載当時著者表記は「手塚治蟲」だった)

「ジャングル大帝」のキャラクターに囲まれた手塚治虫

■漫画少年

1950年、手塚は東京児童漫画会(児漫長屋)に大阪からただひとり参加する。

4月には、月刊誌「漫画と讀物」に「タイガー博士の珍旅行」を連載。11月には学童社の「漫画少年」に代表作のひとつとなる「ジャングル大帝」の連載を開始する。もともと「ジャングル大帝」は赤本の描きおろしになるはずだったが、学童社の代表者の眼にとまり、急遽連載長編マンガに直したのだった。 

さらに翌年4月からは光文社の「少年」誌上で「鉄腕アトム」の前身となる「アトム大使」がスタート。

手塚の人気は大阪の赤本から全国誌に飛び火したのである。

月刊誌 別冊付録

■月刊誌時代

1950年代の半ばからマンガ出版は月刊誌の時代となる。各誌は人気作家を奪い合い、分厚い別冊付録で競い合った。

手塚は文字どおり寝る時間も惜しみながら、何本もの連載マンガや読み切りの別冊付録を発表していった。

宝塚歌劇や学生演劇に凝っていた手塚は、登場人物を劇団員のように扱って、いろいろ違った役で多くの作品に登場させる「スターシステム」を読者サービスの一環として考え出した。

出演作品の内容によってメーキャップもそのつど変えさせて、演技の癖も考え、登場人物に親しみを持ってもらおうとしたのだ。

宝塚歌劇の「花・月・星・雪」の組制を思わせるようなスタジオ割りもされていて、初期の主役級だったケン一とロックはどの作品にも出演できるフリー扱いだった。

50年代のはじめころに手塚自身がつくったスター名鑑には、単行本からキャラクターを切り抜いて、自ら解説を加え、初演や主な役割と出演作品から出演料の一覧表にいたるまできちんと整理されている。

トキワ荘のマンガ家たちと

■トキワ荘をめぐる人々

1953年、手塚は東京・椎名町のトキワ荘に引っ越した。

トキワ荘には手塚に続いて、寺田ヒロオが入居。さらに、手塚が出たあとに安孫子素雄・藤本弘(藤子不二雄)が入居し、その後も、鈴木伸一、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、森安なおや、水野英子、横田とくおらが相次いで入居。

東京在住の永田竹丸、つのだじろう、長谷邦夫らもここに集まるようになり一躍若きマンガ家の梁山泊になった。

■虫プロダクション

1958年、手塚は東映動画の嘱託として長編アニメ「西遊記」の原案構成・演出を担当。

61年6月には練馬区富士見台に完成したばかりの自宅のガレージ2階に、手塚プロダクション動画部を設立。

その後、ベテラン・アニメーターが加わり、同年12月、株式会社虫プロダクションとして正式発足した。

「虫」という名前には、治虫の「虫」と同時に「マンガの虫」「アニメの虫」という意味も込められていた。

虫プロダクションスタッフと虫プロ第一スタジオの前で
Astro Boy(アメリカ NBCテレビ)

■日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」

1963年1月1日から全国のフジテレビ系で国産最初の長編連続テレビアニメ「鉄腕アトム」の放映が始まる。30分の連続ものとしてはアトムが初の試みだった。

週1本のノルマをこなすために、アメリカのハンナ・バーベラがテレビ用に開発したリミテッド・アニメを導入。ストップモーションやセルを保管して繰り返し使うバンクシステムなどの省力化策も考え出された。

「鉄腕アトム」は66年12月までに193本が制作され、最高40.3%、平均25%の高視聴率で人気番組になった。

63年9月からはアメリカのNBCテレビでも「アストロボーイ」の題名で放映された。

■日本初のカラーテレビアニメ「ジャングル大帝」

1965年10月から、虫プロダクションは「鉄腕アトム」に続くテレビアニメとして「ジャングル大帝」の放映をフジテレビ系で開始した。

この作品は国産初のカラーテレビアニメ。

監督は山本暎一、音楽を冨田勲が担当した。山本が制作予算の大半をつぎこんで作り、冨田が曲をつけたオープニングの映像は現在でも作るのは難しいとされるほどのできばえ。特にフラミンゴの群れが一斉に飛び立つシーンは圧巻だった。

テレビ記者会賞特別賞受賞。劇場版でベネチア国際映画祭でサンマルコ銀獅子賞を受賞。

絵コンテ 第一話「行けパンジャの子」
「COM」創刊号(1967)

■COM 

「鉄腕アトム」のテレビ放映中、虫プロはファンのための雑誌として「鉄腕アトムクラブ」を月刊で発行していた。これは郵送のみのミニコミだったが、手塚自身によるアトムの新作や永島慎二らのマンガなどを掲載した本格的な雑誌だった。

「鉄腕アトム」の放映の終了を機に「鉄腕アトムクラブ」は発展解消され、1967年1月、新しい商業誌「COM」に生まれ変わった。

手塚は「COM」をかつての「漫画少年」のような新人の登竜門にしたいと考えた。連載陣は手塚の「火の鳥」や、石ノ森章太郎の「ジュン」、永島慎二の「青春残酷物語」など、第一線の作家たちが大人の鑑賞にも耐える斬新な作品を発表した。

ゲストの作家たちも少年誌では描けないような意欲的作品にチャレンジ。さらに、新人発掘のための「ぐら・こん漫画予備校」を設けて広く作品を募集した。

漫画予備校への投稿者からは、青柳裕介、あだち充、大友克洋。岡田史子、竹宮惠子、能條純一、長谷川法世、宮谷一彦、諸星大二郎ら多くの才能が巣立った。

また、「ぐら・こん」はマンガ家を志す若者やマンガファンに呼びかけて各地に支部をもつ全国的な組織まで発展して、今日のマンガブームの地盤をつくる役割も果たした。

■ライフワーク・火の鳥 

手塚が「火の鳥」に取り組んだのは、1954年に「漫画少年」に連載した「黎明編」が最初。同誌の休刊で中断後、「少女クラブ」(講談社)に新たな構想で連載。これも中断し、67年の「COM」創刊とともに再度「黎明編」からスタートした。

「COM」版は永遠の生命を象徴する火の鳥を狂言回しに「生と死・生命の神秘」を共通のテーマとして持つ独立したエピソードが、古代日本と人類の最後という歴史の両端から交互に綴られる構成で、21世紀のエピソードでは「鉄腕アトム」も登場して、最後は現代のエピソードで完結する予定だった。

それぞれのエピソードには関連があり、人類の最後を描いた「未来編」では、途方もない時の流れの末に再び登場した新しい人類の歴史が「黎明編」へとつながることも暗示されていて、完結すれば手塚流輪廻の世界が完成するはずだった。

「COM」の休刊で中断後、「マンガ少年」(朝日ソノラマ)に「野性時代」(角川書店)と、その後も発表の舞台を変えて描き継がれ、死の直前まで日中戦争当時の中国大陸を舞台にした「大地編」の構想も練られた、文字どおりのライフワークである。

1968年4月に描かれた作品群

■新しいジャンルへの挑戦

1966年、手塚は「少年サンデー」(小学館)誌上にこれまでの少年マンガとは一線を画する「バンパイヤ」の連載を開始した。

最大の特色は準主役のロックの自由奔放な悪役ぶりだ。正義が悪に勝つという既成のパターンをうちやぶるように、悪の限りを尽くすロックは読者の心をつかんだ。

この成功をきっかけに手塚は、つぎつぎに新しいジャンルに挑戦する。

「アポロの歌」では性の問題を、「アラバスター」では人の心の奥にある憎悪を取り上げた。

1968年1月手塚はマンガ制作のために株式会社手塚プロダクションを設立。

「バンパイヤ」のあとを受けて「どろろ」が始まった68年4月には、SF、怪奇もの、大人マンガ、幼年マンガとさまざまなジャンルの13本もの新連載をスタートさせた。

■アニメラマ

手塚はアニメは子供だけのものではなく、大人が楽しめるものもあるべきだという考えを持っていた。アニメの持つ自由な表現力や美しさを大人にも伝えたいと考えたのだ。

日本へラルド映画の「創立10周年を記念して海外にも輸出できるような大人向きのアニメをつくりたい」という企画を受けた手塚は、「アラビアンナイト」に題材をとった大人のための劇場用アニメ「千夜一夜物語」の制作に着手した。オリジナルの劇場用長編アニメとしては、手塚にとって最初の作品であった。

この作品はアニメーションドラマを略して「アニメラマ」と名づけられ、アニメと実写の合成やミニチュアセットとアニメの合成など当時のアニメ技術と映画技術の可能性が追求された。

制作期間は約1年5カ月。動員されたスタッフは述べ6万人。描かれたセルは7万枚にも達する。各界の著名人が声のゲスト出演をしたのも話題になった。

公開は1969年で、制作費1億3000万円に対して配給収入3億2000万円の大ヒット作となった。

「千夜一夜物語」ポスター(1969)
「ブッダ」

■新たな手塚ブーム

1973年、虫プロ商事と虫プロダクションが倒産した。すでに手塚は社長を退陣して経営から離れていたが、結果的に両者の負債を背負い込むことになった。

負債を抱え、アニメ制作の夢を断たれた手塚は、再びマンガ制作に専念することになる。

72年には「COM」の休刊により中断した「火の鳥」のテーマをお釈迦さまの伝記の形を借りて描いた「ブッダ」を「希望の友」(潮出版社)に連載開始。

73年には、マンガ家生活30周年記念作品「ブラック・ジャック」を「少年チャンピオン」(秋田書店)に連載。74年には異色作「三つ目がとおる」を「少年マガジン」(講談社)に、76年には「リリカ」(サンリオ)にメルヘンマンガ「ユニコ」を連載。

それぞれがヒット作となり、新たな手塚ブームが起こった。

「100万年地球の旅 バンダーブック」(1978 日本テレビ系)

■手塚プロのアニメーション

手塚プロによるアニメの本格的な制作が始まるのは、78年のこと。

手塚がアニメ制作を再開した第一の理由は、「ブラック・ジャック」や「三つ目がとおる」のヒット作で金銭的な余裕ができたことだ。

また、竜の子プロの吉田竜夫の突然の死のショックや、「宇宙戦艦ヤマト」に始まるアニメブームの中で手塚を過去の作家とする風潮があったことへの反発もあった。

手塚は、実験アニメ「ある森の伝説」(のち「森の伝説」として一部が完成)の制作を決め、旧虫プロのアニメーターたちを集めた。

78年には、市川崑監督の映画「火の鳥」の合成アニメ部分の制作が決定。

さらに、同年8月、日本テレビ「24時間テレビ・愛は地球を救う」の中で2時間アニメ「100万年地球の旅・バンダーブック」が放映され、手塚アニメ健在を示し、以降、精力的に作品を発表するようになる。

イタリア国営放送を通してバチカンから制作依頼された「聖書物語」セル画

■世界に向けられた視線

手塚は1963年NBCテレビとの契約のためにアメリカを訪問して以来、何度も海外に出かけている。

80年には国際交流基金のマンガ大使として、国連本部で現代日本のマンガ文化についての講演も行った。

手塚は、マンガやアニメはインターナショナルなコミュニケーション手段になると考え、世界に向けて自分のメッセージを伝えようとしたのである。

館内の様子

館内の壁画の元となった原画イラストや、各施設の様子などをご紹介しています。

※こちらに展示してあるイラストは原画となります。実際の館内のイラストとは異なる場合があります。

館内壁画用原画
記念館外観 完成予想図(施行前のイメージ)
館内壁画用原画
館内壁画用原画
エントランス 「リボンの騎士」王宮風ホール
アトムビジョン 映像ホール
ジャングルカフェ
目覚めるアトム(実物大)※期間を限定して展示されたもの
手塚治虫ライブラリー
アニメ工房
情報・アニメ検索機
館内壁画用原画

ストリートビュー

館内の様子は、Googleストリートビューでもご覧いただけます。

提供: ストーリー

制作 — 手塚プロダクション
Produced by — Tezuka Productions Co., LTD.

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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