鳥たちの世界

京都国立博物館

鳥たちの世界
多種多様な鳥類の美しい姿は、古くから東洋で広く好まれました。絵画では、唐代に人物や山水と並んで「花鳥画」が主要な画題のひとつとして確立します。我が国でも、貴族の調度品や、寺院や城の障屛画に華麗な鳥たちが表されました。こうした伝統的な画題として描かれる鳥たちの多くは、長寿や繁栄を表す幸福のシンボルであり、絵が贈られる人物に祝意を表すおめでたいモチーフでした。

山茶小禽図(1473年)
瑞溪周鳳賛

署名や印章はなく筆者を明らかにしえないものの、図上に賦された高名な五山文筆僧・瑞溪周鳳(ずいけいしゅうほう)(1391~1473)の「八十三翁」の款記から、文明5年(1473)の作と判明する。瑞溪はこの年に示寂しているので、絶筆的な着賛といえよう。

図はうっすらと雪がかかった山茶(椿)の木と、それに止まる一羽の小禽をあらわすもので、瑞溪は山茶に冬を、そして小禽の動きに春の到来を感じ取っている。透明感豊かな節度ある彩色も、新春の清々しいイメージを助長するものといえよう。

山茶図の伝統は古く、中国北宋時代には早くも制作されていたことが知られ、わが国でも南北朝時代には既に描かれていたことが文献にみえる。おそらく本図はわが国に舶載された中国院体系の花鳥図を手本にしたと推察されるが、こうした著色花鳥図の作例としては現存最古の部類に属するものである。

四季花鳥図屏風(15世紀)左
雪舟筆


水墨画の巨人、画聖などと仰がれて人口に膾炙(かいしゃ)する雪舟(1420~1506?)。備中国(今の岡山県)に生まれた彼は、上京して相国寺に入り、禅と画業に励んだのち周防国山口に居を移した。その後、遣明使節団に加わって入明し、本場の水墨画に親しんだことが知られる。帰国後、その作画意欲はますます高まり、絵筆を携えて諸国を遊歴するなど旺盛な活動を展開した。
本図はかなりの数が遺る伝雪舟筆花鳥図屏風絵群の中にあって、唯一、彼の真筆と目される作品である。両隻とも松や梅の巨木によって画面が支えられ、その周囲に四季の草花や鳥たちが配されているが、まるで爬虫類のような松梅の不気味な姿とアクの強い花鳥の描写によって、画面には独特の重苦しい雰囲気がもたらされている。おそらく呂紀(りょき)の作品に代表される明代の花鳥図が参考にされたのであろう。

四季花鳥図屏風(15世紀)右
雪舟筆

狩野派や曾我派にも明代のそれに学んだ作例はあるが、本図のように中国画のもつ重厚感やアクの強さをダイレクトに表出したものは少ない。その点、本図の画風は当時の人々の目に斬新に映ったことであろうし、また同時に「入明画家・雪舟」の存在を強くアピールしたに違いない。
口伝によると、文明15年(1483)石見益田家の当主・兼堯(かねたか)の孫、宗兼(?~1544)の襲禄祝いに制作されたとされるが、確証を得ない。

芦雁図襖(1490年)
宗継筆

この作品は、大徳寺の塔頭・養徳院の本堂を飾っていた襖絵(ふすまえ)であった。現在は、後の時代に補なわれた部分を含めて28面が遺っているが、この4面は当初から飾られていた部分である。中国・南宋時代の画僧・牧谿(もっけい)に倣(なら)って、柔らか味のある筆遣いで描かれている。

作者は室町幕府の御用絵師・小栗宗湛(おぐりそうたん)の子、宗継(そうけい)。室町時代の相国寺の僧の日記、『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』の延徳2年(1490)の記録によれば、養徳院の増築に際して、父の描いた芦雁図2面に描き足したものであるという。

明治時代に行われた加筆で図様が大幅に変更されているが、水墨によって描かれた襖絵としては現存最古のものである。さらに、宗継の数少ない基準作としても重要な作品といえる。

四季花鳥図屏風(16世紀)左
芸愛筆

芸愛(生没年不詳)の素性については必ずしも分明ではないが、宗湛(室町幕府の御用絵師、俗姓は小栗)の画系に連なる絵師・宗栗(そうりつ)と同一人物とみなされることや、およそ16世紀半ば頃に京都を中心に活動していたことなどが想定される。とくに大徳寺とは関係が深かったようで、天文10年(1541)代の前半頃、同寺内に再建された龍翔寺方丈に真体および行体手法による花鳥図襖(江戸時代末に焼失)を描いた可能性が高い。

四季花鳥図屏風(16世紀)右
芸愛筆

本図はそんな芸愛の手になる真体花鳥図の大作である。当初の印は切除され、周文印が後押しされているが、むちのようにしなる松や桃、椿など、まるで突風にあおられたような激しい動勢に芸愛の個性がはっきりと見て取れる。どうやら風の動きを表現することが、彼の意図するところであったらしい。帝国博物館初代総長を務めた九鬼隆一の旧蔵品。

花鳥蒔絵螺鈿聖龕(三位一体像)(16~17世紀)
閉扉時

16世紀半ば以降、ヨーロッパの宣教師や商人が続々と来日した。「南蛮人(なんばんじん)」と呼ばれた彼らは、キリスト教の祭礼具や西洋式の家具に蒔絵を施すよう注文し、本国へ持ち帰ったり他国へ輸出したりした。「南蛮漆器(なんばんしっき)」と呼ばれる輸出漆器である。

本品はキリスト教の礼拝画を納める壁掛式の龕(がん)。通常、この種の聖龕には取り外し可能な額絵を納めるが、本品では背板の漆面にじかに油絵を描く。父と子と聖霊は単一であるという三位一体説の教義を示すために、同じ顔の3人の男性を描き、それぞれの胸に、父なる神をあらわす太陽、子イエスを示す子羊、聖霊を示す鳩を添える。

三位を年齢も相貌も同じ3人の人間で示す図は、ヨーロッパのカトリック界では異端視され、ほとんど描かれなかったが、新大陸のヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)では、その視覚的な分かりやすさが認められ17世紀以降大量に描かれたという。メキシコに本図とよく似た図像が伝わることから、本品の油彩画は17世紀以降のメキシコで描かれたと推定される。
聖龕としてはもっともシンプルな長方形で、上部の破風などもない。黒漆地に金銀の平蒔絵(ひらまきえ)、絵梨地(えなしじ)、螺鈿(らでん)で、扉表には萩(はぎ)と椿に尾長鳥を、扉裏には葡萄唐草を大柄に描く。南蛮漆器に多い螺鈿の幾何学文は一切用いていない。

シンプルな形と大柄の蒔絵は、フェザーモザイク(鳥の羽根を用いたメキシコ原住民の貼絵)による聖ステファヌス像を納めた聖龕(東京国立博物館蔵)や、プエルトリコで発見された聖龕(太平洋セメント蔵)などと共通する。スペイン船に積まれ、フィリピン経由でメキシコへ渡ったと推定できる稀有な例のひとつである。

鶴下絵三十六歌仙和歌巻(17世紀)
俵屋宗達画・本阿弥光悦書

俵屋宗達(たわらやそうたつ)(生没年不詳)が金銀泥下絵を描き、その上に本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)(1558~1637)が、柿本人丸(かきのもとひとまろ)以下三十六歌仙の和歌をしたためる。

画像は13.5メートルにおよぶ巻物のほんの一部。巻頭に陸地に佇む鶴の群れ。やがて鶴たちは飛び立っていったん画面外に消え、ふたたび画面内に連続して降りてくる。そして、海上をしばらく滑空し、今度は雲の上まで一気に急上昇して、ふたたび海上に舞い降り、最後に水に足を浸して休息する。鶴が飛び立ってふたたび降り立つまでの旅を、息をのむようなダイナミックさで描ききる。よく指摘されるように、一連の鶴の動きは、アニメーション効果そのものだ。

鶴は、嘴(くちばし)および羽の一部と足に金泥を用い、それ以外を銀泥で描き出す。数少ない筆数での的確な造形は、実に見事。巻頭から長く刷かれる金泥は地面だが、途中から濃淡をつけながら刷かれる金泥は天上の雲ないし霞(かすみ)。この金泥刷きと海をあらわす銀泥描きの波濤によって、鶴の飛行高度の変化を巧みに描き出しているのである。その高度差は、実に大きい。巻子という、天地が限定された画面を逆手にとった見事な造形であり、超横長フォーマットという制限を活かしきった卓抜なデザインといえよう。

今流に言えば、宗達と光悦による絶妙なコラボレーションといってよい。

蓮池水禽図(17世紀)
俵屋宗達筆

蓮の花咲く池にかいつぶりが泳ぐ。そんな何げない景だが、筆が生命を吹き込んで豊かな世界が生まれている。
二茎の蓮は、微妙な濃淡によって葉の表裏を描き分けて椀状の形をつくり、右は上方に広がり、左は下方に伏せる。花は、今を盛りと咲く姿と、すでに花弁が散り始めた姿。その対照と対応させて、かいつぶりは、一羽は小波をたてて泳ぎ進み、一羽は足を休めて佇む。時の移ろいや動静、乾湿の対比などが絶妙に表わされている。

宋元画の蓮池水禽図がいくつか伝わっており、宗達は、それらを元に描いたと思われるが、抑制された淡い墨やきらめくような墨色、柔らかく繊細な筆づかいなど宗達独特の筆墨によって、元のものとはまったく異なる性質の画へと変容し、爽快なビジョンを獲得している。

画面左下隅に「伊年(いねん)」印のみで署名はないが、完成度の高さからも宗達直筆であることを疑うべくもなく、「たらし込み」(前の墨が乾かないうちに濃度の異なる墨を加えてむらむらを作る水墨技法)を多用していないことから、その比較的早い時期の作とみなされる。であっても、宗達の水墨の極致というべき名品であることは動かない。

塩山蒔絵硯箱(18世紀)

日本では中国に倣って硯を単体で扱うこともあるが、多くの場合は箱に仕組み、水滴、墨、筆、刀子(とうす)、錐などとともに収納した。これは、日本の居住空間の基礎とされる平安時代の寝殿作りにおいて、ひとつの部屋で食事、読書、執筆、身繕いなど異なる活動が行われたため、固定的な家具ではなく、持ち運びのできる各種の箱が発達したことに由来する。硯箱は日本の文房具の基本である。

この硯箱の意匠は磯に遊ぶ千鳥であるが、単なる風景画ではない。絵の中に「志本能山散新亭」「君加見代遠盤」「八千世登曽」の文字を散らし、『古今和歌集』の「しほの山さしでのいそにすむ千鳥、きみがみ世をばやちよとぞなく」の歌を表している。中世までの日本の蒔絵には意味を込められていない文様や風景はないといってよく、文字がなかったとしても、教養ある受容者たちはテーマを理解した。

蒔絵技法は梨地(なしじ)、沃懸地(いかけじ)、金平蒔絵(きんひらまきえ)、金研出蒔絵(きんとぎだしまきえ)、金錆上高蒔絵(きんさびあげたかまきえ)、銀金貝(ぎんかながい)、金銀切金(きんぎんきりかね)、付描(つけがき)、描割(かきわり)、銀彫金片(ぎんちょうきんへん)の象嵌(ぞうがん)など多彩かつ複雑を極め、室町時代の漆芸の代表的作例のひとつとされている。
なお、身の見込み部の波文、硯、筆架(ひっか)などは江戸時代の後補と考えられている。
土屋子爵家旧蔵。

玳玻天目(鸞天目)(12世紀)

かつて、中国浙江省(せっこうしょう)の天目山(てんもくざん)にある仏寺で、鉄分を多く含む黒釉がかけられた碗が喫茶に常用されていたことから、日本では黒釉が施された喫茶碗のことを天目、あるいは天目茶碗と呼んでいる。また、玳玻とはウミガメの一種である玳瑁(たいまい)の甲羅(こうら)、即ち鼈甲(べっこう)のことであり、黒釉を塗った上に植物灰を主原料とする灰釉を二重がけすると、鼈甲に似た色に焼き上がるため、その釉薬の色調にちなんで、天目茶碗の中でも特にこの種のものを玳玻盞(たいひさん)・玳玻天目(たいひてんもく)と呼ぶ。

釉薬を二重がけする手法は、宋~元時代の吉州窯(きっしゅうよう)(中国江西省)製品に特徴的な施釉技法で、本例は日宋・日元貿易を通して日本へ輸入されたものと目される。見込みには、尾長鳥と梅の折枝の文様が表わされているが、これは釉薬を重ねがけする際に、型紙を置くなどして灰釉がかからないように工夫し、地薬の黒い色を文様の形に浮かび上がらせたもの。

加賀前田家の旧蔵品として、近代数寄者の高橋箒庵(たかはしそうあん)(1861~1937)が著した名物茶器の実見録『大正名器鑑(たいしょうめいきかん)』にも収録された名碗で、外箱の墨書文字「たいひさむ」は、江戸時代初期の茶匠として著名な金森宗和(かなもりそうわ)(1584~1656年)の手によるものと伝えられる。

柳鷺群禽図屏風(18世紀)左
呉春筆

枯木にとまる鵲(かささぎ)(コウライカラス)の群れを中心とした晩秋、岸辺に繁茂する柳から飛び立つ鷺を主役とした晩春。左右隻で、風吹き渡る秋の乾燥した冷気と、靄湧き上がる春の高湿の暖気が対照される。池田移住後、「呉春(ごしゅん)」と改名してほどない頃の作。岩に顕著な息の長い柔軟な描線、柳の葉の点描などに蕪村(ぶそん)風が濃厚だが、呉春(1752~1811)の筆は絹地上を軽快に走りまわり、枝先の溌剌としたリズムや、生気にとんだ鳥の表情を生み出している。描く歓びあふれる傑作だ。

柳鷺群禽図屏風(18世紀)右
呉春筆

はじめ蕪村のちに応挙を学んで自らの画風を確立した呉春。その軽妙で洒脱みのある新しい画風は、洗練された趣味をもとめる京都の市民層に歓迎された。その一門は、多くが京都四条付近に住んだため四条派と呼ばれ、その伝統は円山派とならんで近代の日本画にまで引き継がれていく。四条派の祖としての呉春、その絵画史的な意味はきわめて大きい。

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