爛熟の江戸絵画

京都国立博物館

(1615-1868)

徳川将軍家が確立した泰平の世、江戸時代。この時代には、都市経済の発達、学問や文芸活動の活性化などを背景として、貴紳衆庶を問わず洗練された美意識が育っていきます。絵画の世界でも、個性を発揮する絵師が現れ、伝統を大切にしながらも遊び心にあふれた作品が生み出されました。京都国立博物館所蔵の江戸絵画は、日本美術史を代表する名品ぞろいです。

阿国歌舞伎図屏風(17世紀)

今日の歌舞伎のルーツとされるのが、出雲大社の巫女(みこ)阿国が、慶長8年(1603)に京都北野社の能舞台を代用して行なった勧進興行「かぶき踊り」といわれる。そのようすを描く絵画として、もっとも古く有名な屏風。

北野社の能舞台上、阿国の代表的な演目「茶屋遊び」が演じられている。男装の阿国演じる「かぶき者」が刀を肩にかけ、その前で、女装の狂言師演じる「茶屋のかか」がなよなよとした風情で坐って扇で顔を隠している。阿国の背後、床机をかつぐ頬かむりの者は、道化役の猿若。三味線無しの謡いで、笛や小鼓・大鼓・太鼓だけの囃子方も初期の様相を伝えるものとされる。

舞台の下では、さまざまな姿の老若男女が演技に熱中している。桐の紋のある桟敷に高位の人物が描かれているが、金扇を手にした人物が豊臣秀吉で、その一行を描くものとみる意見もある。人物の描写はすぐれ、松の葉叢の形や下枝の描法が、京都・妙蓮寺の障壁画中のそれと近いことから、妙蓮寺と同じく長谷川派による制作とする有力説があり、描写の正確さからも、実際の興行からほどない時期に描かれたものと考えられている。

源氏物語図帖(17世紀)
土佐光吉・長次郎筆

室町末から江戸初期、色紙大の小画面に細緻に描く華麗な源氏物語画帖が、さかんに作られた。その代表作のひとつで、桃山期の土佐家を継承した土佐光吉(とさみつよし)(1539~1613)の確実な作品として知られている。宝石のように輝く精緻きわまる画面がすばらしい。

最初から第48話までは順序どおり続くが、その後6図は、前半にある6話を再び繰り返している。つまり最後の6話を欠く。近年の解体修理で、第1~35図の裏面に墨印「久翌」、末尾6図に「長次郎」の墨書が確認された。

その間13図には何もなかったが、画風は最終6図と共通する。これにより、第35図までは、出家後「久翌」と号した土佐光吉の筆、第36図以降は、光吉の有力門人と思しき「長次郎」なる画家の筆と考えられている。

詞書の裏面には、筆者名をしめす注記があり、後陽成天皇を中心とした皇族、朝廷内の主だった公卿・能筆家が名を連ねている。官名等から、慶長19年(1614)から元和5年(1619)頃までにわたって書されたものと考えられている。とくに近衛信尹(このえのぶただ)の息女太郎君と近衛信尋(のぶひろ)だけが、色紙形自体に署名していることから、画帖の制作依頼者を近衛信尹の周辺に求める説が有力である。

鶴下絵三十六歌仙和歌巻(17世紀)
俵屋宗達画・本阿弥光悦書

俵屋宗達(たわらやそうたつ)(生没年不詳)が金銀泥下絵を描き、その上に本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)(1558~1637)が、柿本人丸(かきのもとひとまろ)以下三十六歌仙の和歌をしたためる。

画像は13.5メートルにおよぶ巻物のほんの一部。巻頭に陸地に佇む鶴の群れ。やがて鶴たちは飛び立っていったん画面外に消え、ふたたび画面内に連続して降りてくる。そして、海上をしばらく滑空し、今度は雲の上まで一気に急上昇して、ふたたび海上に舞い降り、最後に水に足を浸して休息する。鶴が飛び立ってふたたび降り立つまでの旅を、息をのむようなダイナミックさで描ききる。よく指摘されるように、一連の鶴の動きは、アニメーション効果そのものだ。

鶴は、嘴(くちばし)および羽の一部と足に金泥を用い、それ以外を銀泥で描き出す。数少ない筆数での的確な造形は、実に見事。巻頭から長く刷かれる金泥は地面だが、途中から濃淡をつけながら刷かれる金泥は天上の雲ないし霞(かすみ)。この金泥刷きと海をあらわす銀泥描きの波濤によって、鶴の飛行高度の変化を巧みに描き出しているのである。

その高度差は、実に大きい。巻子という、天地が限定された画面を逆手にとった見事な造形であり、超横長フォーマットという制限を活かしきった卓抜なデザインといえよう。
今流に言えば、宗達と光悦による絶妙なコラボレーションといってよい。

蓮池水禽図(17世紀)
俵屋宗達筆

蓮の花咲く池にかいつぶりが泳ぐ。そんな何げない景だが、筆が生命を吹き込んで豊かな世界が生まれている。
二茎の蓮は、微妙な濃淡によって葉の表裏を描き分けて椀状の形をつくり、右は上方に広がり、左は下方に伏せる。花は、今を盛りと咲く姿と、すでに花弁が散り始めた姿。その対照と対応させて、かいつぶりは、一羽は小波をたてて泳ぎ進み、一羽は足を休めて佇む。時の移ろいや動静、乾湿の対比などが絶妙に表わされている。

宋元画の蓮池水禽図がいくつか伝わっており、宗達は、それらを元に描いたと思われるが、抑制された淡い墨やきらめくような墨色、柔らかく繊細な筆づかいなど宗達独特の筆墨によって、元のものとはまったく異なる性質の画へと変容し、爽快なビジョンを獲得している。

画面左下隅に「伊年(いねん)」印のみで署名はないが、完成度の高さからも宗達直筆であることを疑うべくもなく、「たらし込み」(前の墨が乾かないうちに濃度の異なる墨を加えてむらむらを作る水墨技法)を多用していないことから、その比較的早い時期の作とみなされる。であっても、宗達の水墨の極致というべき名品であることは動かない。

太公望図屏風(18世紀)
尾形光琳筆

太公望こと呂尚(りょしょう)は、謂水(いすい)に釣糸を垂れて世を避けていたが、中国・周王朝(紀元前1023~同255)の基礎を固めた文王によって用いられ、その才を発揮した。

図様は、中国の版本『仙仏奇踪』(せんぶつきそう)から借用したものだが、大画面化にあたり、あらゆる曲線が人物の腹に収束するよう意図され、統一感のある画面が作り出されている。と同時に、なんとも朗らかな顔の表情やゆったりとした金箔地の広がりが大らかな気分を生んでおり、ひと目見たら忘れられない。

尾形光琳(1658~1716)は、京都・町衆のなかでも絵画で元禄期前後に活躍した中心人物。呉服商雁金屋(かりがねや)に生れ、初め狩野風の絵を学んだが、やがて本阿弥光悦・俵屋宗達の装飾画風に傾倒、大胆で華麗な画風を展開。また、蒔絵や染織など工芸の分野にも卓抜な意匠(光琳風・光琳模様)を提供した。

その画風は弟の乾山や酒井抱一らに引き継がれ、琳派の系譜を生む。画風および「法橋光琳」の署名と朱文円印「澗聲」から、この屏風は光琳の江戸下向(元禄17年・1704、47歳)以前の制作とみなされている。
なお京都国立博物館には、光琳研究上の第一級史料として重要文化財「小西家旧蔵光琳関係資料」、光琳独特の水墨「竹虎図」も所蔵されている。

祇園祭礼図屏風(17世紀)

京都の夏をつげる祗園祭は、疫病退散を祈願した平安時代の御霊会(ごりょうえ)が起源ともいわれるほど長い伝統をもつが、八坂神社の神輿渡御(しんよとぎょ)と山鉾(やまほこ)巡行は、そのハイライト。

この屏風の向かって右隻が旧暦6月7日の山鉾巡行(前祭(さきのまつり))、左隻が6月14日の山鉾巡行(後祭(あとのまつり))の景だ。右隻では長刀(なぎなた)鉾を先頭に、芦刈山、占出山(うらでやま)から岩戸山、船鉾(ふねほこ)まで、23基の山と鉾、左隻では橋弁慶山を先頭に、八幡(はちまん)山、黒主(くろぬし)山から凱旋船鉾(がいせんふねほこ)まで十基の山鉾の巡行がみえる。

保存状態よく、金や濃彩の響き合いがじつに美しい。また人物の顔や着衣の柄はひとりひとり描き分けられ、環境描写にも手抜きはない。そうした優れた描写、絵具や金箔の質の高さなどから、しかるべき発注者が想定されるが、各所の貼札や描写内容から、発注者は武家、具体的には京都所司代の板倉重宗(いたくらしげむね)(1586~1657)とみる説が有力だ。左隻第2扇中段の門前、赤い毛氈を敷いた集団に「せいかん寺(誓願寺)公儀奉行衆さんしき(桟敷)」の貼札があり、これが重宗一行とみられる。

制作した絵師については目下、特定はなされておらず今後の研究が求められるが、京都の絵屋の絵師、海北友雪(かいほうゆうせつ)(1598~1677)を想定する意見が出ている。

堀江物語絵巻(17世紀)
岩佐又兵衛筆

執拗なまでの装飾性をしめす極彩色絵巻、いわゆる「又兵衛風絵巻群」のひとつ。岩佐又兵衛(1578~1650)は、戦国武将荒木村重の子で、誕生翌年、織田信長により一族ほとんどが斬殺されるが、救出され京都で絵師として成長。

40歳ころ越前福井に移住、藩主松平忠直・忠昌に仕え、「又兵衛風絵巻群」を制作したとみられている。描かれた毒々しいまでの凄惨な場面は、その生い立ちと重なる。
室町時代成立の御伽草子の物語『堀江物語』は、両親を殺された月若が成長して仇をとる話。有名なMOA美術館蔵「堀江物語絵巻」12巻はダイジェスト版。

より描写が丁寧で、制作時期もより早い20巻規模と想定される「堀江物語絵巻」があり、うち6巻分の現存が確認されている。香雪美術館の3巻および三重県個人蔵1巻、長野県長国寺蔵1巻、そして京都国立博物館蔵の本作。最終巻にあたる長国寺蔵1巻の直前の巻で、主人公が仇討ちを果たすクライマックスシーンが描き綴られている。

漁楽図(18世紀)
池大雅筆

暗所から急に陽光の中に出ると、瞬時、外界は白んで知覚される。本図に描かれているのは、このハレーション効果を伴う、強い光が照らしつける自然であろうか。筆墨をおさえ、短いタッチを連ねて構成された本図を見つめていると、やがて網膜上に確かな像が結ばれてくる。柔らかな牛毛皴(しゅん)をほどこした岩、胡椒点・介字点によって点描された樹葉などが、下から上へうねりつつ展開する。対象把握の確かさはゆるぎがない。

まぶしい光が反映する樹葉や水波の描写は繊細で、単調さを破る側筆風のふとい樹幹の表現も見のがせない。リズミカルな墨の濃淡は、墨一色とは思えない多彩さ、動勢、立体感を生んでいる。舟で酒盃をかわす漁師たち、水遊びに夢中な子供たちの顔や姿態も、実に表情ゆたかだ。

款記「倣王摩詰」が意味するものは、画法の典拠ではなく、池大雅(いけのたいが)(1723~76)が生涯敬愛した唐の詩人画家、王維の「声無き詩」への遥かな思慕だろう。日本南画の大成者であり、光への鋭敏な感覚をしめした大雅40歳代の傑作として忘れられない。

柳鷺群禽図屏風(18世紀)
呉春筆

枯木にとまる鵲(かささぎ)(コウライカラス)の群れを中心とした晩秋、岸辺に繁茂する柳から飛び立つ鷺を主役とした晩春。左右隻で、風吹き渡る秋の乾燥した冷気と、靄湧き上がる春の高湿の暖気が対照される。池田移住後、「呉春(ごしゅん)」と改名してほどない頃の作。

岩に顕著な息の長い柔軟な描線、柳の葉の点描などに蕪村(ぶそん)風が濃厚だが、呉春(1752~1811)の筆は絹地上を軽快に走りまわり、枝先の溌剌としたリズムや、生気にとんだ鳥の表情を生み出している。描く歓びあふれる傑作だ。

はじめ蕪村のちに応挙を学んで自らの画風を確立した呉春。その軽妙で洒脱みのある新しい画風は、洗練された趣味をもとめる京都の市民層に歓迎された。

その一門は、多くが京都四条付近に住んだため四条派と呼ばれ、その伝統は円山派とならんで近代の日本画にまで引き継がれていく。四条派の祖としての呉春、その絵画史的な意味はきわめて大きい。

果蔬涅槃図(18世紀)
伊藤若冲筆

大根を釈迦に見立て、入滅を嘆き悲しむ菩薩や羅漢、動物・鳥をさまざまな京野菜や果物で、そして沙羅双樹を玉蜀黍(とうもろこし)であらわした見立て涅槃図。もと京都・誓願寺の什物だった。

この画について、涅槃図のパロディというレベルでしばしば語られるが、そうではない。伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)(1716~1800)は、相国寺に「動植綵絵(さいえ)」30幅を精魂こめて描き贈るほど敬虔な仏教徒であった。この見立て涅槃図についても、安永8年(1779)の若冲の母の死を契機とし、母の成仏と家業の繁栄を祈ったものとみる説が出されたが、この説をとるべきだろう。もちろん、若冲が京都・錦小路の青物問屋の跡継ぎとして生まれ育ったことと無関係ではない。
ユーモラスな表情をみせながら、活気に満ちた大画面。コクのある中墨の面と線、潔い濃墨のアクセント。若冲は、「動植綵絵」のような着色花鳥画ばかりでなく、水墨画にも新しい境地をひらいたのだった。

このほか京都国立博物館には、若冲作品として伏見・海宝寺(かいほうじ)旧蔵の障壁画「群鶏図」、「石燈籠(いしどうろう)図屏風」、「石峰寺(せきほうじ)図」、「乗興舟(じょうきょうしゅう)」などが所蔵されている。

提供: 全展示アイテム
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