被爆前の長崎
長崎は九州の西端、港を中心として繁栄してきた港湾都市である。
安土桃山時代から今日まで、400年以上の間に、いろいろな歴史を刻んできた。
1945年8月9日午前11時2分
原爆搭載機ボックス・カー号は、高度約9,600m上空からプルトニウム型原子爆弾を投下した。
この爆弾は、本来の投下目標地点から約3km離れた長崎市の北部・松山町の約500m上空で炸裂した。
爆心地附近の被害
爆心地では
表面温度:3000~4000℃
爆風:、最大440m/秒
と推定されている。
爆心地一帯のパノラマ(被爆から約2か月後)
画像中心部分よりやや左側が爆心地
この付近の建物はほぼ全て崩壊し、全焼した。
爆心地から1km以内
「人畜は強力な爆発圧力および熱気によってほとんど即死、家屋その他の建物、木柱は紛砕し、爆心付近は同時に焼失、他はほとんど同時に各所より強力に火災を発生す。墓石の倒壊続出す。草木は大小にかかわらず爆風の方向へ薙ぎ倒され、幹枝も切断、炎上した。」
『長崎県原爆災害報告』
爆心地から北へ約200m 長崎刑務所浦上刑務所 ‐ 内部は完全に崩壊し、辛うじて外壁が残っている
爆心地から西へ約500m
長崎市立城山国民学校
在籍児童約1500人のうち約1400人が家庭で亡くなったと推定されている
爆心地から北へ約0.7km 山里国民学校 ‐ 在籍総数1581人(1945年6月30日時点)のうち、約1300人が死亡したものと推定されている。
爆心地から1kmから2kmの範囲
「人畜は強力な爆風および熱気によって一部は即死し、大部分は重軽傷を負う。家屋その他の建物、木柱は約八〇パーセント倒壊し、かつ各所より次第に火災を発生し大部分が焼失した。
コンクリート柱、鉄柱の倒壊なし。草木は一部炎上枯死。」
『長崎県原爆災害報告』
爆心地から南へ約1kmの浦上駅付近のパノラマ写真(被爆から約2か月後)
鉄道の復旧は非常に早く8月12日には運行が再開された。
しかし、駅舎を含め多くの建物はまだ復旧していない。
中央やや左寄りの部分に見えるコンクリート造りの建物は長崎医科大学附属医院で、辛うじて外形をとどめているものの内部は全焼したため、使用できない状況だった。
爆心地から南へ約1.5km 爆風により破壊された路面電車 ‐ 原爆により21両の電車が破壊された
爆心地から2km以遠
「人畜は強力な爆風にともなう飛散物によって一部重軽傷を負い、輻射熱線により一部は火傷をこうむる。
黒色の物質は引火を来し、家屋その他の建物はおおむね半壊、木柱の焼失せるものあり、一部の建物は焼失した。木柱表面には爆心に向い、黒い焼痕を生ず。」
爆心地から3km 救護所となった新興善国民学校 ‐ 患者の家族による校庭での炊飯の様子
応急生活から復興へ
原子爆弾に見舞われながらも助かった人々にとって、次の試練は、その翌日からをどのようにして生き抜くかということであった。
最初の数日間は山腹や川べりなどの野宿組も多かったが、人々は間もなく崖下に焼けトタンのひさしを出した仮小屋や、焼け残りの木材や瓦を拾い集めた掘立小屋などを作った。また爆撃からの難をのがれるために作られていた横穴式防空壕は、被爆者を一時的な住居となった。
その後、市営住宅などが整備されるが、数百戸しか建築できないなど、非常に困難な状況が続いた。
被爆から半月から1か月後 ‐ 焼け跡に防空壕を利用した住居が作られた。
被爆から10年後の爆心地附近の全景 ‐ この付近一帯が平和公園となっていく様子がわかる
平和は長崎から
被爆から数年後の爆心地 ‐ 原爆落下中心地碑が立ち、原爆の惨禍を繰り返さないための記念碑となっている。
Curator—Shotaro Okuno