15 周年をお祝いしましょう!

長崎原爆‐都市の破壊

1945年末までに約7万人が亡くなった

被爆前の長崎



長崎は九州の西端、港を中心として繁栄してきた港湾都市である。





安土桃山時代から今日まで、400年以上の間に、いろいろな歴史を刻んできた。

浜町通り(被爆前), USSBS, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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被爆前の浜町通り ‐ 長崎市の中心市街地

長崎駅(被爆前), AFIP, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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被爆前の長崎駅

鎮西学院中学校(被爆前), AFIP, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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被爆前の長崎市内 ‐ 奥には軍需工場が見える

浦上天主堂(被爆前), AFIP, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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被爆前の爆心地附近 ‐ 奥に当時東洋一の大聖堂と呼ばれていた浦上天主堂が見える

きのこ雲, USSBS, 1945-08-09/1945-08-09, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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原爆投下

1945年8月9日午前11時2分



原爆搭載機ボックス・カー号は、高度約9,600m上空からプルトニウム型原子爆弾を投下した。



この爆弾は、本来の投下目標地点から約3km離れた長崎市の北部・松山町の約500m上空で炸裂した。

原爆投下2日前の長崎, USSBS, 1945-08-07/1945-08-07, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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被爆前の爆心地附近

原爆投下から1か月後の長崎, USSBS, 1945-09/1945-09, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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被爆から約1か月後の爆心地附近

爆心地附近の被害



爆心地では



表面温度:3000~4000℃



爆風:、最大440m/秒



と推定されている。

山里の丘より見た爆心地から第1病院までのパノラマ, Shigeo Hayashi, 1945-10-12/1945-10-22, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地一帯のパノラマ(被爆から約2か月後)

画像中心部分よりやや左側が爆心地

この付近の建物はほぼ全て崩壊し、全焼した。

爆心地の木, Hidetsugu Aihara, 1946-01/1946-01, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地附近の木 ‐ 真上からの爆風により裂けている

爆心地から1km以内



「人畜は強力な爆発圧力および熱気によってほとんど即死、家屋その他の建物、木柱は紛砕し、爆心付近は同時に焼失、他はほとんど同時に各所より強力に火災を発生す。墓石の倒壊続出す。草木は大小にかかわらず爆風の方向へ薙ぎ倒され、幹枝も切断、炎上した。」



『長崎県原爆災害報告』

長崎刑務所浦上刑務支所, Hidetsugu Aihara, 1946-01/1946-01, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地から北へ約200m  長崎刑務所浦上刑務所 ‐ 内部は完全に崩壊し、辛うじて外壁が残っている

城山国民学校, AFIP, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地から西へ約500m

長崎市立城山国民学校

在籍児童約1500人のうち約1400人が家庭で亡くなったと推定されている

山里国民学校, USSBS, 1945/1945, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地から北へ約0.7km  山里国民学校 ‐ 在籍総数1581人(1945年6月30日時点)のうち、約1300人が死亡したものと推定されている。

爆心地から1kmから2kmの範囲



「人畜は強力な爆風および熱気によって一部は即死し、大部分は重軽傷を負う。家屋その他の建物、木柱は約八〇パーセント倒壊し、かつ各所より次第に火災を発生し大部分が焼失した。

コンクリート柱、鉄柱の倒壊なし。草木は一部炎上枯死。」



『長崎県原爆災害報告』

浦上駅プラットホームからのパノラマ, Shigeo Hayashi, 1945-10-12/1945-10-22, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地から南へ約1kmの浦上駅付近のパノラマ写真(被爆から約2か月後)

鉄道の復旧は非常に早く8月12日には運行が再開された。

しかし、駅舎を含め多くの建物はまだ復旧していない。

中央やや左寄りの部分に見えるコンクリート造りの建物は長崎医科大学附属医院で、辛うじて外形をとどめているものの内部は全焼したため、使用できない状況だった。

破壊された路面電車, Torahiko Ogawa, 1945-08-20/1945-09-30, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地から南へ約1.5km  爆風により破壊された路面電車 ‐ 原爆により21両の電車が破壊された 

三菱長崎兵器製作所茂里町工場, USSBS, 1945/1945, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地から南へ約1.5km  三菱兵器製作所 茂里町工場

爆心地から2km以遠



「人畜は強力な爆風にともなう飛散物によって一部重軽傷を負い、輻射熱線により一部は火傷をこうむる。

黒色の物質は引火を来し、家屋その他の建物はおおむね半壊、木柱の焼失せるものあり、一部の建物は焼失した。木柱表面には爆心に向い、黒い焼痕を生ず。」

九州配電火力発電所, USSBS, 1945/1945, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地から南へ約2km  九州配電火力発電所

西中町天主堂, Hisashi Ishida, 1946/1947, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地から南南東へ約2.7km  西中町天主堂

新興善国民学校救護所, Tomiichi Masuya, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地から3km  救護所となった新興善国民学校 ‐ 患者の家族による校庭での炊飯の様子

応急生活から復興へ



原子爆弾に見舞われながらも助かった人々にとって、次の試練は、その翌日からをどのようにして生き抜くかということであった。

最初の数日間は山腹や川べりなどの野宿組も多かったが、人々は間もなく崖下に焼けトタンのひさしを出した仮小屋や、焼け残りの木材や瓦を拾い集めた掘立小屋などを作った。また爆撃からの難をのがれるために作られていた横穴式防空壕は、被爆者を一時的な住居となった。

その後、市営住宅などが整備されるが、数百戸しか建築できないなど、非常に困難な状況が続いた。

防空壕仮設住居, Torahiko Ogawa, 1945-08-20/1945-09-30, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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被爆から半月から1か月後 ‐ 焼け跡に防空壕を利用した住居が作られた。

坂本町大学病院下通り, RERF, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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爆心地より約800m ‐ 家庭用燃料にマキを集めて運ぶ市民。左の建物は急造の市営住宅。

稲佐山中腹から爆心地方面を望む, Torahiko Ogawa, 1955-04-19/1955-04-19, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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被爆から10年後の爆心地附近の全景 ‐ この付近一帯が平和公園となっていく様子がわかる

平和は長崎から

爆心地標識, Hisashi Ishida, 1946-01/1946-01, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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被爆から数年後の爆心地 ‐ 原爆落下中心地碑が立ち、原爆の惨禍を繰り返さないための記念碑となっている。

爆心地, Kenichiro Sato, 2011-05-27/2011-05-27, コレクション所蔵: 長崎原爆資料館
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現在の原爆落下中心地碑

提供: ストーリー

Curator—Shotaro Okuno

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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