新宿ゴールデン街 入り口新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
東京都新宿区歌舞伎町、ゴールデン街。戦後すぐに建てられた木造長屋が今も残り、約6500平方メートルのエリアに約280店舗もの飲食店がひしめき合うように営業しています。「“ただの酒場”にとどまらない、”飲屋街”としての魅力が、ここにはあるんだよ」そう語るのは、新宿ゴールデン街で50年以上店を営んできた、外波山文明さん。どうしてここは特別なのでしょうか?その答えを、街の歴史に求めました。
ゴールデン街の裏路地新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
個性溢れる飲み屋をはしごして、“飲屋街”そのものを楽しむ
ネオン輝く日本随一の歓楽街から、しだれ柳の遊歩道を一本入った先。碁盤の目のような細い路地の両側に、木造長屋がずらりと立ち並び、その1階も2階も所狭しと飲み屋が埋め尽くしています。
1970年代のゴールデン街 「ロベリア」店内新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
1店舗の平均的な敷地はおよそ4坪程度。人ひとりがやっと通れるような狭い扉を開けると、5、6人が肩を寄せて座るカウンターがあり、店主の趣味趣向が前面に押し出された濃密な空気が立ち込めます。客はいくつか行きつけを作り、一晩に5、6軒をはしごする……。これが、ゴールデン街の定石。どこか妖しげで魅惑的な街のムードは人を惹きつけ、近年は訪日外国人が多く訪れる観光地として、より賑やかさを増しています。立ち並ぶ木造長屋が今の“特別な飲屋街”となる前、その起源をたどると、日本の戦後復興期までさかのぼります。
1970年代のゴールデン街に暮らす人々新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
1970年代のゴールデン街で働くママ新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
1970年代初期のゴールデン街新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
終戦直後の闇市、そして色街へ。長屋での営みが変化していく
1947年、終戦直後。進駐軍により、新宿駅の東側にあった闇市と新宿二丁目の『赤線』の周囲にいた露天商が今のゴールデン街、そして三光町のエリアに移転させられたのがことの始まり。政府は地元住民に商業協同組合を作らせ、それまで空き地だった場所を各組合員に分譲したことで、現在も残る3〜5坪程度の同じような構造の長屋が作られることになったのだそう。
1970年代初期 ゴールデン街で暮らす家族写真新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
1階では飲食店や美容院、診療所、青果店から寿司店まで、まるで花園街という村が出来上がり、寝食は店の2階3階で生活する。そんな庶民の暮らしが営まれていたこの街も、徐々に歓楽街としての色を強めていきます。非合法の売春地帯“青線”として隆盛を極め、それは1958年に売春防止法が全面施行されるまで続きました。
1970年代初期 ゴールデン街の暮らし新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
ゴールデン街「突風」外観新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
ゴールデン街「突風」内観新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
ゴールデン街「突風」店主の柴田秀勝さん新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
色街に終わりを告げたこの街で、はじめに店を開けたのは『突風』の柴田秀勝さん。現在も同じ場所で店を営む現役店主です。「僕が店を開けたのは、売春防止法が施行されたその年。大卒の22歳で演劇の道を志したものの、仕事も無く。新宿好きの僕が足を向けたのが当時の『花園街』。そして色々な事がご縁となって自分でも店を始めることができたんです。そのうち演劇仲間も一緒に店に立つようになって、後輩を3階に住まわせたりしていたんだよ。あれから60年の歳月が過ぎて今でもカウンターに立っている、御年82歳。なんて、あんまり自慢にはなりませんネ」
ゴールデン街新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
外波山文明さんの一人芝居のポスター新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
「クラクラ」店主、外波山文明さん新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
『クラクラ』の店主・外波山文明さんも、ゴールデン街の50年選手です。「僕が上京したのは、1967年。演劇も映画も、新しい時代を迎えようとしていた頃。隣の花園神社に唐十郎が紅テントを建てて芝居をしたり、翌年には新宿騒乱という学生運動の事件が起きたり、すでに『新宿に来れば何か面白いことが起きている』というムードがあった。ゴールデン街の飲み屋にも、演劇人や作家、ジャーナリスト、それにそういう人たちと出会いたい若者なんかが集まってきてたね」
「ひしょう」階段新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
常連が常連を呼び、まさに“類が友を呼ぶ”状態。小さい店を次々とはしごすることで、その人脈は伝播していきます。「はしご酒をした先々で色々な人と会って、時には喧嘩をしたり、『暇しているなら舞台を手伝ってよ』なんて仕事の話がまとまったり……。ただ金を払って酒を飲むだけじゃない。酒場に集まった人を介して文化が作られていくということが現れた場所だった」(外波山さん)
「ひしょう」を経営する佐々木美智子さん新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
文化的サロンの側面が強くなったことには、魅力的なキャラクターの“ママ”たちの存在も大きく関係しているようです。『ひしょう』の店主、佐々木美智子さんは“おみっちゃん”の愛称で親しまれるゴールデン街の名物ママ。前身の『むささび』を1968年にオープンした後、一度ゴールデン街を離れるもまた舞い戻り、今も現役です。
「ゴールデン街のママは、みんな気が強くてねぇ。みんなママたちに一目置いて慕って店に通って来ているから、言うこともちゃんと聞いてくれるのね。客も一癖ある人が多くてしょっちゅう喧嘩していたけれど、『うるさい!外でやんなさい!』って言うと、ちゃんと表に出ていくの。どうしたかな……なんて思った頃には意気投合していて肩組んで帰ってきたりしてさ。ママに叱られても気に入って通ってくれる常連がちゃんといたから、商売していて変な目に合うこともなかったんだよね」
客が一方的にもてなされるのではなく、一緒になって店のムードを作っていく。今もゴールデン街の店々で受け継がれている暗黙のそのルールは、この頃から築かれていたようです。
「ひしょう」内観新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
ゴールデン街を愛する人々の思いが、今の姿を残している
すっかり“飲屋街”として成熟し、多くの文化人に愛されていたゴールデン街ですが、これまで幾度となく存続の危機に面してきました。1980年代には経済バブル期を迎え、地上げ騒動に悩まされることになります。
「ひしょう」内観新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
「その頃には、花園街を立ち上げ商売をしていた組合員達も年をとっていて、店を売ってどこかに引っ込んだ方が楽に暮らせると考えた人も少なくなかったんだよね。当時かなりの数があった店も半減。客も半減。それでも今と借家法も違って立ち退きを命じるのが難しかったから残った店は頑張ろうとしたけれど、ずいぶんと街は寂しくなっちゃったよね」(柴田さん)
ゴールデン街新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
そして1992年に『定期借家法』が制定されて大家が借家人に物件を貸すハードルが下がったことで、新たな人の流れが生まれます。貸しやすい借りやすい事で若者の店主が少ない元手で店を持てることが人気を博し、次々と新しい店ができるようになりました。老朽化した建物も自ら手を入れ、改装を施した店も増えています。
夜のあかるい花園3番街新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
「うちもふたつの店を繋げて、2階の天井を抜いて吹き抜けにしたんだよ。今の法律じゃ建てられない面白い長屋だから、外は変えられないけれど、中はみんなそれぞれ居心地良くしようと工夫しているよね。細い階段を上った先の2階に店があるから敷居が高いって言われることもあるけれど、それもまた良いと思ってる。勇気を出して扉を開けたら、2度目からは常連になれるのがゴールデン街の面白いところだよ。この街並みや文化は、一度壊したらもう取り戻せない。だから、この街を守っていけるように頑張っているの」(外波山さん)
あかるい花園3番街新宿ゴールデン街商業組合、新宿三光商店街振興組合
戦後に分譲された土地の背景や、その後の生活や風俗から必然的だった長屋のかたち。新宿を中心として沸き立った文化や思想の熱い渦。街を仕切って生きた店主たち。
ゴールデン街が特例飲屋街だと言われるその背景には、一言では言い表せない長い歴史がありました。少しずつ姿を変え、ゴールデン街はしご酒が定着、今宵もその歴史は続いています。
協力:
クラクラ
突風
ひしょう
ロベリア
写真:中垣 美沙
執筆:平井 莉生
編集:林田 沙織
制作:Skyrocket 株式会社