生い立ち
大阪は、かつて水の都と呼ばれた日本を代表する商業都市であり、安藤の言葉を借りるならば、その精神は「権力に屈せず」「反骨」「実利主義」である。 この大阪の下町にある15坪ほどの平屋が横並びにひしめく典型的な棟割長屋で、安藤は祖母の手によって育てられた。
近隣には木工所や鉄工所、ガラス屋などさまざまな業種の職人が暮らしており、子どもの頃の安藤は毎日のように木工所で、木端を使っての工作遊びに興じていたという。
若き日の安藤少年にとって、モノづくりに懸ける職人たちが暮らす環境そのものが、原初的な学びの場でもあった。
中学生のとき、自宅の長屋の改築工事で、屋根裏部屋が作られた。仕事を請け負ったのは近所の若い大工。懸命に働く彼の姿を、安藤少年は一日中、憧憬の眼差しをもって見つめていた。この出来事が「建築を意識した最初の瞬間であった」と安藤は振り返る。
工事のさなか、屋根にあけられた穴から、暗闇だった空間に光が差し込んだ。その光の鮮明さが、安藤建築の原点としてあるのかもしれない。
安藤忠雄、17歳。ボクサー
高校生になった安藤は双子の弟の影響からボクシングをはじめ、17歳でプロボクサーとしてデビューする。その経験は、自らをストイックに追い込みつつ、静かに燃え続ける闘争心を育て、その後の建築家としての安藤に大きな力を与えた。
元世界チャンピオンだったファイティング原田のスパーリングを目の当たりにした安藤は、その能力の高さに圧倒されボクサーの道をあきらめる。その後は、独学で建築を学びつつ、知り合いのつてでインテリアや家具のデザインの仕事を始めた。
グランドツアー
1964年に東京でオリンピックが開催されると海外への渡航が自由化された。その翌年、若き日の安藤は、近代建築を生み出した憧れの建築家ル・コルビジェのいるヨーロッパへと向かった。
大切なのは、自分の身体で体験する異なる価値観との出会いの中で、自分自身を見つめ直し、自分という人間を発見すること(安藤忠雄)
横浜から船でソビエト連邦へわたり、シベリア鉄道を使って1週間かけてモスクワへ。そこからヨーロッパへと足を踏み入れた。
旅の途中でギリシャのパルテノン神殿やローマのパンテオンなど、名建築と呼ばれるものをひたすら見て歩いた。
そのなかでもとくに楽しみにしていたのが、古本屋で作品集を見つけて以来体験したいと熱望していたル・コルビジェの建築だった。最後までアカデミズムと対峙し、闘い続けたコルビジェの姿は安藤にとってその後の大きな指針となった。
この20代の数年間におよぶ世界放浪の経験は、今に至る建築活動の原点だと安藤は語る。
旅の中で描かれたスケッチ(安藤 忠雄)出典: Tadao Ando Architect & Associates
その後も、幾度となく旅に出かけ、アジア、アメリカと世界中を歩いて回り、その地域の人々の暮らしや建築の姿をスケッチブックに描き止めてきた。
建築とは、そうしたメディアではすくいとれないものを内包するものである。だから建築家は旅をしなければならないし、また旅は建築家をつくる(安藤忠雄)
世界を肌で感じ、またさまざまなジャンルで活躍する多くの人との出会いを経て、1969年に安藤は生まれ育った大阪で自身の設計事務所を設立する。
都市ゲリラ 住居Ⅰ(加藤邸)(1972) - 作者: 安藤 忠雄出典: Tadao Ando Architect & Associates
都市ゲリラ住居
既存の価値観に反旗を翻す前衛的な芸術運動家との交流。たまたま滞在したパリでの5月革命との邂逅。世界全体が大きなうねりをあげた60年代を駆け抜け、未来への期待と不安が入り混じるなか、安藤は「都市ゲリラ住居」と名づけた住宅案を1972年に発表する。
高度成長期の日本において、都市は住むための環境としては劣悪になり、経済原理が個人の生き方や暮らしをますます規定するようになってしまったという社会批判。
そのなかで若き建築家は「都市ゲリラ住居」という試みを通して、〈個〉を思考の中心に据え、あるいは、肉体的直感を基盤に据え、自己表現としての住居をもとめたのだった。
外部環境への〈嫌悪〉と、〈拒絶〉の意思表示としてファサードを捨象し内部空間の充実化をめざすことによって、そこにミクロコスモスを現出せしめ、あらたなリアリティをその空間に追い求める(安藤忠雄)
「都市ゲリラ住居」として発表された三作品のなかで、唯一実現されたのがこの「冨島邸」である。都市の暴力性から個の暮らしを防御する、生活を囲い込むコンクリートの壁。
内部には、光や風を取り入れる最小限の穴としてのトップライトがあけられ、閉ざされた空間に自然のリズムを付与する。ここにはすでに、その後の安藤建築を特徴づける問題意識の萌芽を見ることができる。
安藤建築の代名詞の一つとも言えるのがコンクリートの壁。そのイメージをもっとも印象づけた建築が「住吉の長屋」だろう。建築家自身が生まれ育った環境と同様の大阪の下町に建つ三軒長屋の真ん中に、安藤は大胆にもコンクリートの箱を挿入し、外部と断絶された内部空間を生み出した。
「住吉の長屋」で実現された、寡黙なコンクリートの表情、単純な幾何学的構成、光によって取り込まれる自然。これらは、その後に続く安藤建築の原型となり、この住吉の長屋が「建築家安藤忠雄」が広く世界に知られるきっかけとなった。
闘う建築家
建築家として戦い続ける安藤忠雄、その物語の本編が始まる。
闘う人間の姿は美しい。荒れ狂う反逆の60年代の最中、彼らの後ろ姿を垣間見ながら、私自身もそうありたいと願った(安藤忠雄)
執筆:川勝真一
編集:和田隆介
ディレクション:neucitora
監修:安藤忠雄建築研究所