最後の将軍、徳川慶喜ゆかりの場所を訪ねて

幕末の激動の時代に翻弄された15代将軍徳川慶喜。明治という新しい時代を迎え、将軍家である徳川宗家からも別家するが、その足跡は今も上野の山に残っている。慶喜ゆかりの場所を訪ね、その面影をしのぶ。

「葵の間」をのぞく小窓上野文化の杜

激動の時代に将軍となった慶喜

東叡山寛永寺の境内奥、この小窓の向こうにある小さな一室「葵の間」で、しばし寝起きしていた徳川将軍がいる。1866(慶応2)年に15代将軍に就いた慶喜だ。当時の日本は、黒船来航をはじめ、諸外国からの干渉を受けて大いに揺れていた。外国と戦い、朝廷中心の政治に変えていこうとする尊王攘夷派、外国との交流を通して近代化を目指そうという開国派など、さまざまな主張をする者たちが現れ、時には血で血を洗う戦いにも発展。日本は混乱を極めていた。

「葵の間」外観上野文化の杜

なぜ慶喜は「葵の間」に?

事態を収拾できない徳川幕府に対する不満は膨れ上がり、倒幕の動きが加速するなか、1867(慶応3)年に慶喜は政権を天皇に返上する「大政奉還」を行う。しかし、その後の徳川家の処遇に不満を抱いた旧幕府勢力は新政府軍と衝突。1868(慶応4)年1月、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発した。もはや武力で状況を打開できないと考えた慶喜は朝敵とされることを恐れ、天皇への恭順の姿勢を示そうと謹慎生活に入ることを決意。その謹慎の場に選ばれたのが「葵の間」だった。

「葵の間」の床の間上野文化の杜

慶喜が慎ましやかな生活を送った「葵の間」

「葵の間」は寛永寺に36あった子院の一つ、5代綱吉の廟所を守る大慈院の一室。大慈院は当時の寛永寺の北西に位置し、抜け道を通ってすぐに千住へと出られ、万が一襲撃にあっても逃げやすい場所であったという。1868(慶応4)年2月12日から、慶喜はたった2間の部屋で謹慎生活を始めた。同年4月に慶喜は辛うじて死罪を免れ、江戸城の無血開城と同日、「葵の間」を去る。一方、これらの処分に不服だった旧幕府勢力の彰義隊は寛永寺を拠点に上野戦争を引き起こし、この戦いで根本中堂など寛永寺の多くの建造物が失われた。

谷中霊園徳川慶喜公墓所上野文化の杜

慶喜公が眠る谷中霊園

「葵の間」を去った後も慶喜の謹慎生活は続き、1869(明治2)年に戊辰戦争の終結をもって解かれた。その後は趣味に没頭して余生を過ごしたという。徳川宗家(将軍家)とは別家となり、寛永寺とも縁遠くなったが、1913(大正2)年に亡くなると、再び上野の山に戻ってくる。徳川宗家16代当主の家達(いえさと)の計らいで、その墓所は谷中霊園内の寛永寺墓地に残された。谷中霊園には、慶喜が徳川御三卿の一橋家当主であった頃から仕えた渋沢栄一も眠る。渋沢は将軍を退いてからも慶喜を慕い、その墓も主君への忠義を示すかのように慶喜の墓所を向いて立っている。

徳川慶喜肖像(国立国会図書館デジタルコレクションより)上野文化の杜

慶喜は大正時代の1913年まで生きた。享年77(満76歳25日)だった。

谷中霊園徳川慶喜公の墓上野文化の杜

神道形式の埋葬を望んだ慶喜は、神式の土まんじゅう形の墓に眠る。

谷中霊園徳川慶喜公石碑上野文化の杜

慶喜の功績を記した石碑。その奥左が慶喜、右が正室の墓。

提供: ストーリー

提供/上野文化の杜新構想実行委員会

撮影/大河内 禎 文/岩本恵美 構成/佃さやか

提供: 全展示アイテム
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