祈りとともに熊を狩る 山の神に捧げるマタギという生き方

「家に帰って、妻の手を握りたい」

そう青年が山で願ったとき、彼の右足は食いちぎられていた。山の神からの授かりものとされる、熊に。

マタギとして、大正から昭和初期を生きた男を描く小説『邂逅の森』。直木賞も受賞した、熊谷達也の2004年の傑作です。ひたすらに白く深い雪に閉ざされた山のなかで、熊と人間の生死を賭けたやりとり。熊も人間も、命を守りつないでいくために、極限の世界を生き抜いていく。そんな厳しい試練を自らに課さなくてはいけない、マタギとは果たして一体誰なのでしょうか?

マタギの湯 施設内観(2019)出典: 秋田県ツーリズム

マタギの装備 雨蓋(2019)出典: 秋田県ツーリズム

資料写真(2019)出典: 秋田県ツーリズム

北秋田市の雪景色(2019)出典: 秋田県ツーリズム

マタギの湯 施設内観(2019)出典: 秋田県ツーリズム

古来より人を生かしてきた、命の源としての熊

簡潔にいうならば、マタギは「狩猟を生業とする」者たち。しかし彼らをただの「ハンター」とは違う存在にしているのが、その伝統と信仰です。歴史は、なんとさかのぼること平安時代。今も国土の約70%が山と、圧倒的な森林面積を誇る日本だけに、マタギは日本の北から中心まで山々を駆け巡ってきました。

マタギの湯 代表の仲澤弘昭さん(2019)出典: 秋田県ツーリズム

「マタギは狩った熊から薬を作り、ほかの里へ売りに行きました。その行商の旅で、各地でお嫁さんを見つけ、土地に住みつきマタギ文化を広めていったのです」。そう教えてくれたのは、マタギ文化を代表する秋田県阿仁打当にある、「マタギの湯」の仲澤弘昭さん。

「彼らの狩る熊は、肉はもちろん内臓から骨、血液、脂まで、あますところなく人々の生活に使われていたのですよ。神聖な熊を、粗末に扱うなんて許されない。肉を食べるだけではなく、舌や内臓は、独自の方法を用いて薬として使っていました。狩猟は木々の葉が落ち視界がよくなる、初冬から春にかけてしかできません。狩猟期以外は、薬売りとして生計を立てていました。現金収入がほぼない山間部の集落にとって、熊がもたらす経済的な恩恵はとても貴重なものだったのです」。

ナガサと呼ばれる山刀(2019)出典: 秋田県ツーリズム

「一番高価な薬を試してみますか?」と、心なしかニヤリとして仲澤さんは尋ねてきます。差し出されたのは、山刀と書いてナガサと読む分厚い刀と、乾燥した濃い緑の塊。慣れた手つきで削ってくれた粉末は、まさに悶絶の味でした。ヨモギなどの植物が持つ強い苦みを、丁寧に何度も凝縮させたような味。つまり、ひどい。飲み込んだあとも舌がジンジンと痺れ、鼻の先から頭まで香りが残ります。思わずくちゃくちゃにしかめた顔を見て、仲澤さんは「良薬口に苦し、ですね」と嬉しそうに笑いました。

熊の胆のうを乾燥させた胆(い)(2019)出典: 秋田県ツーリズム

「これは胆のうを乾燥させた胆(い)と呼ばれるもの。胃腸薬や毒消しの万能薬として重宝されました。このナガサもすごいでしょう? 山で植物をなぎ倒したり、動物の解体作業に使います。柄に開いた穴に長い棒を差しこみ、槍として使えるようになっていて、熊とも対峙できるようになっている。これを外国の方に見せたら、「マウンテン・サムライだ」と言われましたよ」

マタギ小屋(2019)出典: 秋田県ツーリズム

男の運命を決めるのは、山の女神

「山は、山の神が支配する場所。そして熊は、山の神からの授かり物」とするマタギ。しかしその尊く神聖なものを食するという行為は、一見矛盾しているようにも思えます。そんな矛盾を解消するために先人たちが選んだのが、山に敬意をはらう独自の信仰だったのです。

「日本では、山の神は女性の神と言われており、ここ阿仁でも例外ではありません」と、仲澤さんは続けます。「とにかく、山の神を怒らせてはいけない。この神は特に醜く嫉妬深いため、山は絶対に女人禁制です。マタギが女性を触ったあとに山に入ることも許されませんし、神よりもさらに醜いとされる魚のオコゼを干物にしてまで持参し、神を喜ばせることも。

また山で話すときは特別なマタギ言葉を使い、里で使う言葉は一切使いません。「マタギ」という言葉すらも、正確な意味は不明の独特の言葉。自分たち人間の住む里とは違い、山は神聖な場所だと思っているという、神に対してのメッセージです」

熊の毛皮(2019)出典: 秋田県ツーリズム

山で行われる儀式も、実に様々。入山前に身を清める水垢離から、熊をしとめたとき、熊を解体するとき、そして最後に神に収穫を感謝するときなど、呪文を用いて山の神からの贈り物に敬意を示すといいます。

これら一切の儀式や狩猟の戦略を組み立てるのが、「シカリ」と呼ばれるマタギの狩り集団の頭領。いわゆるリーダーです。通常は8~10人程度のグループですが、獲物によっては数十人にもなる一団で、各人の役割をきめ儀式から料理まで一切の指示をだしていきます。完全にチームプレイの猟のなかで、監視する者、追いつめる者、威嚇する者、射撃する者……と各々の役割を決めるのも「シカリ」の仕事です。

「また「シカリ」は、代々受け継がれてきた秘伝書を必ず持って山に入らなくてはなりません。「山立根本之巻(やまだちこんぽんのまき)」などと呼ばれるもので、門外不出。マタギの祖である万事万三郎が山々で猟を許されたということが書かれているといいます。過酷な環境にいるマタギたちにとって、精神的な支えと言えるでしょう」

マタギの装備(2019)出典: 秋田県ツーリズム

マタギ資料館 猟の際に使用される鉄砲(2019)出典: 秋田県ツーリズム

資料写真 マタギ達が獲物とともに山から降りてくる様子(2019)出典: 秋田県ツーリズム

熊鍋(2019)出典: 秋田県ツーリズム

尊い山の恵みが、この椀に詰まっている

マタギ座敷と呼ばれる囲炉裏の部屋に、食欲をくすぐる香りが漂ってきます。柔らかで、濃厚な味噌の香り。マタギたちが食べている、阿仁地方自慢の熊鍋です。湯気とともに立ち上げる香りには、臭みはほとんどありません。仲澤さんが、「本来はもっと臭みがあるけれど、熊肉にあまり慣れていない観光の方たちにも食べやすいようにています」と教えてくれます。

一口、その汁をすすってみます。こぼれるのは、ほっと小さな声。成分を濾していない日本酒、どぶろくを隠し味に使っているだけあり、柔らかな口当たりです。けれど、しっかり力強い肉の香りも感じられる味。熊の肉は弾力があり、脂が強いもの。噛むたびにじわりじわりと染み出てくる脂は、同じ山でとれた山菜の苦みと抜群の相性とされてきました。自然が育てた山の恵みが、この一杯に詰まっているのです。

熊鍋(2019)出典: 秋田県ツーリズム

熊ラーメン(2019)出典: 秋田県ツーリズム

春先の山菜(2019)出典: 秋田県ツーリズム

マイナス6度にもなる過酷な雪山で、山の神に祈りを捧げながら、ときに何日間も猟を行う男たち。この暖かい湯気と汁に、一体どれほど癒されたのでしょうか。もちろん山の過酷さをわかっていない私たちには、マタギと全く同じものの見方はできません。けれど、山の神からの授かりものである熊の鍋が、彼らと私たちをつないでくれた気がしました。

提供: ストーリー

協力:
マタギの里観光開発株式会社
一般社団法人 秋田犬ツーリズム
SAVOR JAPAN

写真:中垣 美沙
執筆:大司 麻紀子
編集:林田 沙織
制作:Skyrocket 株式会社

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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