海女小屋の様子(2020)農林水産省
酸素ボンベなどは背負わず、身ひとつで海に潜って海の幸を獲る、海女。そんな逞しく働く海の女性たちは、昔に比べると随分数は減ったものの、今でも日本各地に残っています。中でも、現役の海女が多く残るのは三重県の鳥羽市と志摩市。この地域で育まれた海女の歴史を遡ると、その始まりは2000年以上前とも言われています。そんなに昔から廃れることなく、今にも残る海女文化を探るため、鳥羽市の「海の博物館」と志摩町和具の海女さんの元を訪ねました。
三橋まゆみさん(2020)農林水産省
女性らしくしなやかでたくましい海女の仕事
素潜りで海に入って、経験とプロの勘で獲物の居場所を探り当て、獲る。
そのプロセスを考えたら、漁師よりも野生的で力強い印象がある「海女」という職業。それを30代前半から始め、今も現役の三橋まゆみさんは、海女になった理由をこう語ります。
「海女歴は、約38年になります。きっかけは、子育てをする中で仕事環境について考えるようになったこと。勤めに出るとお休みが取りづらいけど、海女なら自分次第だし、頑張ればパートよりも稼げるからいいなって思って。でも、実際にやってみると、潜るのと泳ぐのでは全く別。お尻を返してまっすぐ潜るのって難しくて。誰が教えてくれるわけでもないから、潜り方も捕り方も見様見真似で覚えたんです」
現在活躍する伊勢地域の海女さんたち(2020)農林水産省
海に潜るのは、3月、4月は午前と午後で1時間ずつ、5月から9月までは1時間半ずつ。5キロ程度の重しを付けて海に入り、海藻をかき分けながらアワビやサザエなどの獲物を探して、時に石も駆使して手に持ったノミで獲ります。しかも、その一連の作業を約50秒の無呼吸の中で手際よく進めなくてはならないので、体力的には非常にハード。
「海女って、欲と根性が大事なのかも。力を抜こうと思ったらいくらでも抜けるから、自分に打ち勝っていかないとできないんです。私は目標を立てて、それを達成できるように、っていう気持ちでやっています。口には出さないけど、海に出たら海女仲間もライバルです。海女小屋に帰ってきたら、一緒に火を囲んでお弁当を食べて、仲良しですけどね(笑)世間の常識や人への気遣いも、一緒に潜る海女の先輩たちに教えてもらいました。そういうことも含めて、海女になってよかったなぁって思います」
白衣姿の海女 | 資料(2020)農林水産省
平賀大蔵さん(2020)農林水産省
食生活にも神事にも欠かせなかった海女の営み
ところで、海女はいつから存在するのでしょう。漁師や海女、船乗りなど、海辺で暮らしてきた人々と海の歴史にまつわる6万点もの展示物を有する「海の博物館」の館長 平賀大蔵さんに訊ねてみると、「海に女と書いて海女と読ませるようになったのはここ100年前くらいですから、『海女』という名前自体はそこまで古くないんです」と意外なお答え。そして、こう続けます。
海女の道具(2020)農林水産省
日本の冠婚葬祭に使われる熨斗袋(2020)農林水産省
「927年に書かれた『延喜式』という書物には、〈潜女〉という表記が出てきますから、少なくとも1000年前には海女の存在はあったということでしょう。でも、言い伝えレベルになると、歴史はもっと遡って2000年ほど前。神宮を創建したと言われる倭姫命が神様へのお供えものを探している時に、志摩半島の最東端にある国崎で出会った海女にアワビやサザエをもらい、それを気に入って献上の約束をした、という話が残っています」
確かに、神宮へのお供え物に「熨斗鰒」があります。これは昔から国崎の浜で獲ったアワビで作られていて、1871年まではこの周辺の海女が集まって、熨斗にするためのアワビを獲ることが「御潜神事」として行われていました。その他にも、様々な神社に奉納されているものには、海女が獲る海産物が欠かせません。それだけ需要があったということは、海女がいかに活躍していたかということがわかります。しかし、潜って獲るという点でいうと海女のルーツはもっと古い、と平賀さん。
「鳥羽市浦村の白浜遺跡からは、アワビやサザエの貝殻が出ています。アワビには生育する水深が異なる3種類がありますが、中でも最も深いところで生息する種の殻も見つかっているので、誰かが潜って獲ったとしか考えられません。弥生時代にアワビを岩から剥がすときに使ったであろう、鹿の角で作られた道具も出てきています」
海女の装い、今昔(2020)農林水産省
今の海女文化の原型とも言えるものは、それだけ古くからあったようです。昔は潜っていたのが女性か男性かは不明ですが、三橋さんはこうも話していました。
「この辺りだったら、潜るのは女性じゃないと厳しいですね。身体の作りからして男性は寒さに耐えられないって言いますから。脂肪があって、それでいて辛抱強い女性だからこそ、海女ができるっていうのは昔から言われていました。今はウェットスーツですけど、昔は海女着という保温性のない衣服しかありませんでしたから、相当寒かったと思います」
海女の像(2020)農林水産省
海女が身につける魔除けの印(2020)農林水産省
1955年頃まで海女が身につけていた真っ白な海女着は、サメ避けの役割もあったとか。海の中は常に危険と隣り合わせですから、海女たちは魔除けの意味を込めた「おまじない」として、セーマンという星印とドーマンという格子模様を磯手ぬぐいなどに施して身につけていました。衣装が変わった今でも、頭には磯手ぬぐいが定番。利便性だけでなく、祈りなど見えないものを大切にする習慣が残っているのは、神宮が身近にある三重らしさでもあり、八百万の神が日常にある日本らしさでもあるのかもしれません。
海中の海女の仕事風景(2020)農林水産省
しかしながら、昨今の変化としては、海女の数が減っているのも事実。後継者不足という問題にも直面しています。また、海の中の環境も昔とは随分変わったと三橋さんは言います。
「最近、アワビが主食とするアラメという海藻が随分減っていますね。餌がなければ、当然アワビも育ちませんから心配です。昔は、海藻をかき分けて探すので、肩が痛くなるくらいでしたけど、今は上から見てもわかる程です」
三橋まゆみさん(2020)農林水産省
日々、海の中を見ている海女だからこそ、気づく変化があるのでしょう。彼女たちは、獲物でも小さなものは決して獲らずに残しておくなど、なるべく海の環境が変わらないように秩序を保った活動をしています。彼女たちの行動が、少しでも海中環境の改善に繋がるようにと願わずにはいられません。
プリミティブな部分を残した稀有な日本文化であり、海中の環境を見続けている「海女」がこうして存続してきたことは、昔からの人の営みを純粋に受け継いでいるという意味で、奇跡であり希望でもあるのかもしれません。
協力:
三橋まゆみさん
鳥羽市立海の博物館
写真:阿部裕介(YARD)
執筆:内海織加
編集:林田沙織
制作:Skyrocket 株式会社