グスタフ クリムトと分離派

作成: Google Arts & Culture

フランツ・スモラ博士著

Group of artists with Gustav Klimt(c. 1898)Austrian National Library

世紀の変わり目に、美術界で大きな改革運動が起こりました。ヨーロッパ中の芸術家が、それまで所属していた伝統的な芸術家団体を拒絶したのです。こうした芸術家たちは、ドイツやオーストリアで、通常「分離派」(政治派閥のようなもの)と呼ばれるクラブを創設し、芸術に関する独自の、前衛的なアイデアを実践しました。

Gustav Klimt(1917) - 作者: Moriz NährAustrian National Library

グスタフ クリムトの作品は、ウィーン分離派と密接に関連しています。クリムトは、1897 年にこの芸術家団体が結成されたときの共同創設者の一人であり、初代会長でした。1905 年に友人とともに分離派を脱退するまで、クリムトは分離派の展覧会を通じて、自身の最新作をウィーン市民に公開しました。

クリムトは 1891 年から、当時ウィーンで最も重要な芸術家の属していたオーストリア芸術家協会のメンバーでした。この協会はウィーンを代表する芸術家団体であり、キュンストラーハウスで開催される定期展覧会は、ウィーンの文化的生活において重要な役割を果たしていました。

14th exhibition at the Vienna Secession(1902) - 作者: Moriz NährAustrian National Library

しかし、特に若手メンバーの間で、展覧会の運営方針を近代化すべきだという声が次第に高まっていきました。若手メンバーたちは、協会の選考プロセスが余りにも厳しく、芸術家が個人的な進歩を遂げるための余地がほとんど残されていないと考えていました。グスタフ クリムトは当時 30 代半ばで、こうした若手芸術家の一人でした。クリムトとその仲間たちは、当初芸術家協会を変革しようとしましたが、その後すぐに、独自のグループを創設することが唯一の解決策であると悟りました。分離派は、こうした経緯から誕生しました。

1897 年 4 月 3 日、分離派の創立総会が開催され、23 名のメンバーが参加しました。その 1 か月後、このグループはオーストリア芸術家協会を正式に脱退し、完全に別個の団体となりました。グスタフ クリムトは分離派の会長に就任しましたが、この時点でメンバーは 13 名しか残っていませんでした。分離派には、その他にも重要な芸術家が参加していました。今日でも有名な芸術家として、カール モル、コロマン モーザー、ヨゼフ マリア オルブリッヒ、ヨーゼフ ホフマンが挙げられます。

分離派創設から 1 年後の 1898 年、最初の分離派展が開催されました。グスタフ クリムトが制作した展覧会のポスターには、ギリシャ神話の英雄テセウスが、裸で臨戦態勢をとっている場面が描かれていました。

このポスターには、分離派の芸術家の作品が持つ急進性がよく現れていました。

Emperor Franz Joseph I visiting the I. Secession exhibition(1898)Secession

このデザインに対して苦情を申し立てた団体はなかったにもかかわらず、クリムトは最終的に、検閲に従ってこのポスターを修正せざるを得ませんでした。ウィーンの当局から、テセウスの裸体が不適切であると叱責を受けたためです。

Plan for the construction of the Secession, Cross section through the entrance hall(1897) - 作者: Joseph M. OlbrichSecession

こうしたトラブルにもかかわらず(むしろそのおかげで)、分離派展は大成功を収めました。4 月 6 日には、皇帝フランツ ヨーゼフ自らこの展覧会を訪問しました。会長のクリムトとその他のメンバーは、儀礼を尽くして皇帝を迎えました。

Building of the Secession, Getreidemarkt(1903)Secession

この展覧会によって、分離派の関係者全員が、ようやく各自の創造性を存分に発揮することができました。この成功を受けて、ヨゼフ マリア オルブリッヒは 1898 年、分離派専用の会議施設兼展示施設を新たに建設しました。この施設はウィーンの中心部、カールスプラッツとウィーン美術アカデミーの近くに建てられました。この建物全体が、革新と再生を表していました。

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こぢんまりした白い建物は、一見すると聖堂に似ていながら、驚くほど華麗な装飾が施され、月桂樹の葉をモチーフとした金色の大きなドームを頂いています。正面入口の上部には、美術評論家ルートヴィヒ ヘヴェジィの「Der Zeit ihre Kunst. Der Kunst ihre Freiheit.」(時代にはその時代の芸術を、芸術には自由を)という言葉が、分離派のモットーとして金色の文字で掲げられています。

Pallas Athene(1898) - 作者: Gustav KlimtWien Museum

この建物は、1898 年の秋に開催された第 2 回分離派展と同時に開館しました。この間グスタフ クリムトは、分離派に対して世間が持つイメージを改善しようと努めていました。分離派展では、他の 6 点の絵画とともに、芸術を司る女神であるパラス アテナの寓意画を展示しました。この女神は、芸術の自由を求める闘いを象徴するものとして描かれました。

Exlibris of the Union of Austrian Artists, Secession(1902) - 作者: Gustav KlimtMAK – Museum of Applied Arts

この作品には、美術界の伝統的体制に反逆する若いモダニストたちのために、ときの声を上げるという意味が込められていました。保守的な美術評論家たちは、この絵に対して激しい非難を浴びせました。クリムトは、アテナを分離派のトレードマークとして使いました。たとえば、分離派の蔵書用に、アテナをあしらった「ex libris(エクスリブリス)」(蔵書票)を作成しました。これは、アテナを一種のロゴとして使用することを意味していました。

Cover Ver Sacrum, Organ der Vereinigung bildenden Künstler Österreichs, 1898, Vol.1, No 1(1898)Secession

分離派は建物、スローガン、パラス アテナのマスコットに加えて、独自の雑誌を発刊しました。クリムトはこの雑誌のために数多くのデザインや挿絵を制作しました。月刊誌『Ver Sacrum』は、雑誌自体が芸術作品として扱われるように、限定版として発行されました。1898 年に創刊号が発行されてから 5 年後、出版に時間と費用がかかりすぎることを理由に、『Ver Sacrum』は廃刊されました。

Gustav Klimt on Lake Attersee(1904) - 作者: Moriz NährKlimt Foundation

クリムトはまた、自分の作品を一般に公開する場として、後続の分離派展を利用しました。クリムトは回を重ねるごとに、どうにか彼自身と分離派に対するマスコミの注目を高めることができました。たいていクリムトの 1~2 点の作品が物議を醸し、議論が二分されました。

Judith(1901) - 作者: Gustav KlimtBelvedere

多くの場合、こうした議論は女性を題材にした絵画をめぐるものでした。裸の女性を正面から描いた「ヌーダ ヴェリタス」や、ほぼ裸同然の薄着の女性を描いた「ユディト」などの絵画は不適切と見なされ、官能的、または完全なわいせつであるとの批評を受けました。

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クリムトは分離派展で、今日でも有名な女性の肖像画や風景画のほかにも、記念碑的作品をいくつか発表しました。その中でも特筆すべきは、分離派会館全体を使って展示された「ベートーヴェン フリーズ」と、いわゆる「学部の絵」です。

Insight The Kunstschau 1908(1908) - 作者: Moriz NährAustrian National Library

分離派の時代は急進的な変革の時代と見なされ、「聖なる春」と呼ばれました。この運動はフランス印象派、オーギュスト ロダン、ベルギー象徴派などの芸術家たちを魅了しました。分離派は 1897 年から 1905 年までの間に、合計 23 回の展覧会を開催しました。クリムトはまた、1903 年から 1904 年にかけての冬に、生涯で最初の、そして唯一となった個展を、分離派としてウィーンで開催しました。

Karl Moll in Jackett(Madame d'Ora, Atelier)Austrian National Library

1905 年 6 月、個人的な論争が巻き起こり、続いて分離派における美術と工芸の役割、および営利事業としての分離派の役割について、意見の相違が鮮明になりました。この論争は主に、クリムトの友人で仲間のカール モルが、ウィーンの大手画廊の一つであるミートケ画廊の芸術監督の職に就いたことがきっかけで起こりました。

Armchair, Der reiche Fischzug (The Rich Catch of Fish)(1900) - 作者: Portois & Fix, Koloman MoserLos Angeles County Museum of Art

美術と工芸は、芸術的な装いを施した道具の生産であると定義できます。美術品や工芸品は量産された後、通常は個人の作業場や芸術家の元に届けられていました。このような外部委託による生産工程を経た美術品や工芸品が、果たしてどれほど芸術作品と言えるのかということは、すでに数世紀にわたって美術界で議論され続けてきた問題でした。

Kunstschau 1908(1908)Austrian National Library

この論争の結果、クリムトのほか、ヨーゼフ ホフマン、オットー ワーグナー、カール モル、アルフレート ロラーを含む 17 名の芸術家が分離派を脱退しました。その後彼らは「クリムト グループ」として登場し、1908 年、ウィーン モダニズムの画期的な展覧会となった「クンストシャウ」(芸術展)を共同で開催しました。

提供: 全展示アイテム
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