作成: 立命館大学アート・リサーチセンター
立命館大学アート・リサーチセンター 協力:京都女子大学
《嚴島神社》 宮島御砂焼参考画像(写真: 岡本礼教)立命館大学アート・リサーチセンター
宮島御砂焼とは
宮島御砂焼とは、嚴島神社本殿下の砂を粘土に練り込んでつくられる広島県の焼物のことです。江戸時代中期を起源とし、現在では広島県廿日市市、宮島を対岸にのぞむ、宮島口において受け継がれ焼かれています。
元々嚴島神社は、飛鳥時代(593年)における創建以来、航海の神、旅の守り神として信仰されていました。江戸時代になると、安芸の国において、旅に出る際に本殿社下の砂を護符としてもちかえり、無事に帰郷できた折には、その砂に旅先の砂を加えて返すという「御砂返し」という慣習がうまれます。神社の砂は「御砂」として、護符の役割を担っていたのです。ある時、旅を終えて無事に帰郷した人が持ち帰った砂を入れて土器を作り、嚴島神社に奉納しました。この出来事が宮島御砂焼へと発展していきます。
《嚴島神社》 宮島御砂焼参考画像(写真: 岡本礼教)立命館大学アート・リサーチセンター
宮島御砂焼の歴史
江戸時代文化年間(1804-18)には、宮島内で嚴島神社本殿下の砂を混ぜた素焼きの土器が、祭礼用の器として作られるようになります。それを「御砂焼」または神聖な御砂を使用することから「神砂焼(しんしゃやき)」とも呼ぶようになりました。更にはその祭礼用の器を宮島土産として参拝客にも売り出されるようになります。
文政年間(1818-30)には安芸藩主浅井公が産業振興の目的で、嚴島神社の砂を混ぜた陶器を広島県本土で作らせ、宮島に運び、「御砂焼」として参拝客に販売するようになりました。全国各地から多くの人々が宮島に参拝したことから、「御砂焼」の名が広く知れ渡っていきます。
その後も御砂焼は、衰退と復興を繰り返しつつ、明治・大正・昭和時代を経て現代に至るまで、多くの人々によって受け継がれて来ました。今日まで続くその系譜を宮島御砂焼といいます。現在では、大正期に創業した川原厳栄堂を皮切りに、山根対厳堂、昭和期に川原厳栄堂から独立した川原圭斎窯、この三つの窯元が宮島御砂焼の現代を担っています。
宮島御砂焼の制作工程
現在の宮島御砂焼はどのように作られているのでしょうか。山根対厳堂の〈もみじ紋シリーズ〉の制作工程をみてみましょう。
土練り/厳島神社の御砂を混ぜる
神社で祈祷の後、拝領される御砂は、作る焼物や使う土や石の特質に合わせて、粒子の大きさを調整しています。このシリーズでは、細かく粉砕したものを使っています。 まず御砂を焼物に混ぜるのは、土練りの段階です。少量ずつ土に練り込み、均質に混ぜていきます。土は、主に東広島市西条町のものを使用しています。
宮島御砂焼 《轆轤成形》(写真: 岡本礼教)立命館大学アート・リサーチセンター
折り鶴灰釉香炉
「折り鶴灰釉香炉」は、折り鶴の灰が釉薬に加えられた作品です。広島で折り鶴といえば、全世界から平和公園に寄せられる折り鶴のことです。その折り鶴が、平和への願いをこめて宮島弥山大本山大聖院で焚き上げられる機会がありました。その時に生じた灰を、三代興哉氏は用い、焼物においても平和への願いをこめたのです。鶴が羽を広げ羽ばたく形と折り鶴のシャープなイメージが白磁でよく表されています。
オリジナル・キャンドル ホルダー
また大聖院不消霊火堂「消えずの火」の灰を使ったキャンドルホルダーも制作しています。 このように当代は、平和への祈りを広島・宮島という地から発信する意義を踏まえ、それを焼物へと結びつけた作陶を試みています。そのことは、現代という時代の宮島御砂焼の取り組みとして、歴史の一ページに加えられていくことでしょう。今後もどのような展開がみられるのか見守っていきたいです。
協力: 山根対厳堂
写真: 岡本礼教
監修&テキスト: 清水愛子
編集:京都女子大学生活デザイン研究所 小林祐佳 (京都女子大学家政学部生活造形学科)
英語サイト監修: Melissa M. Rinne (京都国立博物館 )
プロジェクト・ディレクター: 前﨑信也 (京都女子大学 准教授)