宝塚市立手塚治虫記念館 エントランスホール出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
2020年6月にリニューアルを果たし、より見やすく分かりやすくなった「宝塚市立手塚治虫記念館」。手塚治虫が幼少期を過ごした兵庫県の宝塚市に位置し、今日も多くの来場者を迎えている。5つのキーワードとともに館内を巡れば、より「マンガの神様」の素顔に近づけるはず!
宝塚市立手塚治虫記念館 廊下出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
「マンガの神様」が誕生するまで
『鉄腕アトム』(光文社、1952)、『ブラック・ジャック』(秋田書店、1973)、『火の鳥』(1954)など、数え上げれば切りがないほどの傑作を生みだした手塚治虫(1928-1989)。その作品たちには、未来へ向けた彼の想いが込められている。手塚が登場する以前、日本のマンガは「笑い」に重きを置いたものが多く、大人も楽しめるようなメッセージ性のある作品は少なかった。今のマンガ界の礎を築いたという意味でも、やはり手塚は「神様」なのだ。
宝塚市立手塚治虫記念館 常設展示出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
超人度がわかる年表・完全版
60年の生涯で描いた作品は、約700タイトル、およそ15万ページに及ぶ。現在多くのマンガ家は一度に1作品のみを手掛けるが、手塚は複数の連載を常に抱えており、最も多い時は同時に7作品もの連載を抱えていた。館内に設置している年表では、プライベートな出来事に加え各作品の連載時期も紹介。まったく異なるジャンル、異なる画風のマンガを同時に描きわけていた才能に脱帽する。
宝塚市立手塚治虫記念館 常設展示出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
40のカプセルで素顔に近づく
エントランスを抜ければ、『火の鳥(未来編)』に出てくる生命維持装置をヒントにデザインされた常設展示が待っている。カプセルのなかに大事に収められているのは、手塚を物語る貴重な資料たち。ちなみに特別展は手塚自身を取り上げたものや、若い才能をフィーチャーしたものなど、年間3回にわたり企画展示されており、マンガ・アニメ文化を継承する役目を果たしている。
手塚治虫『ピンピン生チャン』出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
キーワード① 創作と吸収の幼少時代
「手塚治虫記念館」を読みとくキーワード巡りは、絵への情熱からスタート。小さい頃から絵を描くことが好きで、小学校では紙芝居やマンガを描くようになった手塚少年。当時はマンガが文化として認められるには程遠かったが、マンガ好きの父や理解ある母の協力もあり、思う存分に楽しめたという。所有マンガや自作の貸し借りが、いじめっ子たちとのコミュニケーションツールになっていたことも面白い。手塚はのちに、「マンガの功徳」と振り返っている。
上から手塚治虫『ルードウィヒ. B』『グリンゴ』『ネオ・ファウスト』出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
新たな物語を生んだ読書の日々
マンガ以外にも、読書は手塚少年の日課だった。ウェルズのSF小説に夢中になったが、フィクション以外にも科学や歴史など様々なジャンルを読破。この読書体験が、テーマを奥深く掘り下げる手塚マンガにつながっていったのかもしれない。ゲーテ文学をもとにした『ネオ・ファウスト』(朝日新聞社、1987)やベートーヴェンを描いた『ルードウィヒ. B』(潮出出版社、1989)など、遠い海外を舞台にした作品を多く残したのも読書の賜物だ。
宝塚市立手塚治虫記念館 常設展示出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
キーワード② 小さくも広い虫の世界
手塚少年は「本の虫」であったが、実際の虫も大好きで昆虫学者を夢見たこともあった。圧巻なのは、展示されている手塚直筆の虫や蝶の標本。まるで写真と見間違うほどの精密さで描かれた資料は、辞書のようにまとめ上げられた目録とともに飾られている。
宝塚市立手塚治虫記念館 アトムビジョン(ハイビジョンシアター)©宝塚市立手塚治虫記念館出典: ©宝塚市立手塚治虫記念館
虫と旅するオリジナルアニメを鑑賞
同フロアにあるハイビジョンシアターでは記念館でしか見ることができないオリジナルアニメーション3作品と手塚治虫が取り組んだ実験アニメーション作品を月替わりで上映している。館オリジナル作品の1つ『オサムとムサシ』は手塚少年と愛すべきオサムシの物語。オサムシは手塚お気に入りの甲虫で、小学5年生のときに本名の「治」に「虫」をつけ「治虫」というペンネームにしたきっかけの虫だ。原作・監修を息子の手塚眞が手掛けたこの短編は、ぜひ観ておきたい。
宝塚市立手塚治虫記念館 メッセンジャー機出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
語り語られる、貴重なムービーは必見!
メッセンジャー機から流れる映像は、手塚本人による「手塚治虫大いに語る」と、著名マンガ家たちが手塚を振り返る「手塚治虫を語る」の2本。やなせたかし、松本零士、藤子・F・不二雄、浦沢直樹など20名の錚々たる面々が出演し手塚への想いを打ち明けている。藤子不二雄Aの「手塚先生がいなかったらマンガ家になっていなかった」という言葉からも、次世代に与えた影響の強さが伝わってくる。
宝塚市立手塚治虫記念館 マンガ歴史パネル出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
マンガの歴史に敬意を称して
日本マンガ史を大きく塗り替えた手塚らしく、館内の階段部ではマンガの成り立ちを紹介している。鳥獣戯画まで遡り、詳しく説明。
宝塚市立手塚治虫記念館 ジオラマ 手塚治虫の昆虫日記の宝塚 ©宝塚市立手塚治虫記念館出典: ©宝塚市立手塚治虫記念館
キーワード③ 自然と文化の宝塚
「手塚治虫記念館」の現在地でもある、手塚が育った宝塚の街。彼が住んでいた当時、瀟洒な建物の裏にはキツネやタヌキが顔を見せる雑木林が広がっていたそう。特に手塚少年の家の裏山は、大好きな昆虫採集に加え、仲間と宝探しや「秘密結社ごっこ」を繰り広げる空想の大舞台だった。宇宙基地にも魔境にもなる原っぱでは、想像力は無限に広がったことだろう。文化と自然の街で、のちの手塚作品の基本となるモダニズムとヒューマニズムを育んでいく。
手塚治虫『似顔絵 春日野八千代』©手塚プロダクション出典: ©手塚プロダクション
二面性のあるヒロインを生んだ宝塚歌劇団
現在も宝塚市のシンボルになっているのが、1911年に創設された宝塚歌劇団。華麗なダンスと歌、演技で魅了する舞台は、女性しか立てないという珍しいエンターテインメント。母が大ファンだったこと、そして隣に歌劇団のスター姉妹が住んでいたこともあり、手塚少年もよく観劇に足を運んだ。のちに男装をするプリンセスを描いたマンガ『リボンの騎士』(1953)も、宝塚歌劇団から大いにインスパイアされたそう。
手塚治虫『ジャングル大帝』(カラー合成原稿)出典: ©手塚プロダクション
キーワード④ 実感した生命の尊さ
想像力を育てた宝塚での日々だが、よいことばかりではない。九死に一生の戦争を体験したのもこの地だった。手塚は17歳のときに、自分のすぐ横を焼夷弾がすり抜け、「人間もウシもいっしょくたに死んでいる」ほど悲惨な戦火を逃れている。生と死の狭間で感じたのは、いのちの尊厳。本人が「どんな科学も、自然を否定することはできない」「生命のありがたさが、どの作品にも自ずと表れてしまう」と語るほど、手塚治虫という人間の素になった。
宝塚市立手塚治虫記念館 ブラック・ジャックの像出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
医学マンガの金字塔は、実体験から生まれた
先祖が幕末の医者だった手塚らしく、自身も医学博士の顔を持っている。「東京でマンガ家か、宝塚で医者か」迷ったという手塚青年。大阪大学で研修医を務めていたときに感じた生命の神秘が、戦争体験とあわせ彼に影響を与えていった。権威に屈しない主人公を描く『ブラック・ジャック』でも「自然の摂理に反し、人の命をいたずらに伸ばすことが医者の務めなのか?」と、自問自答する姿が描かれている。
宝塚市立手塚治虫記念館 手塚治虫ライブラリー出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
今日はどのマンガの世界に浸る?
約2000冊が閲覧できるライブラリーコーナーでは、ほぼ全ての手塚マンガを網羅。英語や中国語に加え、なんとエスペラント語で揃っている作品もあるという。壁にかけられたイラストの、キャラクターたちに囲まれた手塚の笑顔が微笑ましい。
宝塚市立手塚治虫記念館 アニメーション制作の例出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
キーワード⑤ アニメ制作にかける想い
最後のキーワードは、アニメーション監督としての手塚に注目。ミッキーマウスは『鉄腕アトム』のキャラクターデザインにも影響を与えたと公言しているほど、幼少時からウォルト・ディズニーの作品に夢中だった。しかし尊敬はそのままに、改善を試みるのが手塚の素晴らしいところ。独自の効率的かつ印象的なアニメーションを作り出していく。
宝塚市立手塚治虫記念館 アニメ工房出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
絵に命を吹き込む、アニメ作りに挑戦
アニメ工房では、昔ながらのアニメ制作の基礎を体験できる。壁にはアニメ制作の歴史紹介に加え、実際に使われた貴重なセル画が並ぶ嬉しい空間。
宝塚市立手塚治虫記念館出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
日本のロボット研究者の多くが、本作を観て技術者を志したという『鉄腕アトム』。1952年の誕生以来愛され続けるアトムが、来場者の動きと連動するアトラクション「まねっこロボット」となって登場!
宝塚市立手塚治虫記念館 公式アプリの画面出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
リニューアルでは、アプリと連動する新企画もお目見え。3つのテーマ別に巡るコースガイドに加え、プレゼントつきのスペシャルコンテンツもあり。「手塚治虫記念館」は同日何回でも入場可能なので、1日中手塚の世界観を堪能したい。
宝塚市立手塚治虫記念館 手塚治虫仕事部屋出典: 宝塚市立手塚治虫記念館
神様とは「人間らしさ」を教えてくれる存在
館内を歩いて感じるのは、生前より「マンガの神様」と呼ばれた手塚治虫の魅力。しかしその仕事ぶりは連続で徹夜をしたりと、「神」の神秘的なイメージからは程遠いものだった。最後の言葉は「仕事をさせてくれ」だったという、文字通り命がけでマンガを描いた手塚。私たちを励まし、時にいましめ、笑顔にさせてくれる作品は、彼が60年の生涯をかけて遺した未来へのメッセージだ。手塚からのマンガという贈り物を、私たちはすでに手にしている。
当記事は、2020年7月に取材し制作したものです。
参考文献
宝塚市立 手塚治虫記念館(1994)「THE OSAMU TEZUKA MANGA MUSEUMZU図録」手塚プロダクション.
手塚治虫(1996)「ガラスの地球を救え―二十一世紀の君たちへ」光文社.
手塚治虫(1997)「ぼくのマンガ人生」岩波書店.
手塚治虫(2016)「ぼくはマンガ家」立東舎.
協力:
宝塚市立手塚治虫記念館
手塚プロダクション
撮影:上原 未嗣
編集・執筆:大司 麻紀子
編集:林田 沙織
制作:Skyrocket 株式会社