Lady with Fan(1917/1918) - 作者: Gustav KlimtBelvedere
この絵には、中国のローブをまとった若い女性の立ち姿が描かれています。彼女は化粧をして、髪を留めています。見知らぬ人の前でこれほど肌を露出することはないため、彼女が親密な状況にいることがわかります。ローブが肩からずり落ち、裸の胸が中国扇でわずかに隠れています。この絵画の題名は、この主要モチーフに由来しています。
この女性が誰であるかはわかっていません。この絵は完成してすぐに、「踊り子(Tänzerin)」という題名でも公開されています。この若い女性が、グスタフ クリムトのお気に入りのバレエダンサーか、ミュージック ホールのダンサーだった可能性は十分にあります。これらの女性たちは、クリムトの求める理想美に一致しただけでなく、多少ヌードの要素が加えられた場合でも、そうした理想美自体を自信を持って表現するための題材として選ばれていました。
Friends I (The Sisters)(1907) - 作者: Gustav KlimtKlimt Foundation
富裕な女性たちの肖像画の制作の傍らで、クリムトはこうした美しい、魅惑的なウィーンの女性たちをテーマとした作品の制作に夢中になりました。
クリムトはこれらの絵を制作する際に、モデルの性格や個性を描くことよりも、純粋な女性美を、それが十分に発揮されるような方法で表現することのほうにより関心を払いました。
The friends after Gustav Klimt, plate 1, Gustav Klimt - The gleanings(1931) - 作者: Gustav KlimtMAK – Museum of Applied Arts
その中でも特に、覆い隠すことと、覆いを取ることのエロティシズムを表現することに関心を抱いていました。「扇を持つ女」の 1 年ほど前に制作され、後に焼失した 2 枚の絵(「ヴァリーの肖像(Bildnis der Wally)」と「女ともだち II(Freundinnen II)」)は、クリムトがいかに熱心にこのテーマの新しいバリエーションを発見し、より優れた解決策を求めようと努力を続けていたかを物語っています。多くの場合、これらの人物の姿勢や輪郭はほんの少しだけ変更されました。
クリムトが 1910 年以降に制作した後期の作品では、中国美術への傾倒も見られました。クリムトが絵の背景の中で使用した装飾的なモチーフ、特に幸運の象徴である鳳凰(Feng-hua)、鶴、蓮の花や、さらに建築物、戦士、植物、雲などは、すべて中国の陶磁器や服などに描かれた絵からインスピレーションを得たものでした。
Lady with Fan(1917/1918) - 作者: Gustav KlimtBelvedere
「扇を持つ女」に描かれた、飛翔する大きな鳳凰(Feng-hua)、
鶴、
キンケイ、
蓮の花、その他の植物。
黄色い背景に、これらの動植物が散りばめられています。
Schale mit Bodenmarke der Periode Daoguang (1821 - 1850)MAK – Museum of Applied Arts
クリムトは、このモチーフ自体をテンプレートとしてだけでなく、中国の骨董品で使用されている典型的な色の組み合わせとして採用しました。扇を持つ女の黄色い背景は、中国の骨董品で見られるインペリアル イエローに似ています。クリムトは、クロムイエロー、コバルトブルー、赤褐色、銅色がかった緑、ピンクなど、中国の陶磁器でよく使用されている釉薬の色を模倣しました。
Lady with Fan(1917/1918) - 作者: Gustav KlimtBelvedere
「扇を持つ女」に描かれている女性は、中国美術の様式を完全に踏襲した背景の前に立っているだけでなく、中国のローブをまとっています(細部まで仕上げられていないものの、袖の波模様から簡単に見て取ることができます)。クリムト自身、東アジアの衣服の貴重なコレクションを所有していましたが、これは 1945 年の爆撃で焼失しました。
Wien 13, Feldmühlgasse 11(1918) - 作者: Moriz NährAustrian National Library
クリムトはこのコレクションに非常に満足しており、アトリエを訪れた人には必ずこのコレクションを見せていました。ある訪問客は、「アデーレ ブロッホ=バウアーの肖像(II)」と「パウラ ツッカーカンドルの肖像」の装飾の由来について、クリムトが次のように説明したと述べています。
その 1 つは、歌川国丸作の、手紙を持つ遊女の美人画でした。このような遊女の美人画は、クリムトが、線の形式美と装飾パターンに基づく装飾的スタイルを確立するうえで、多大な影響を及ぼしました。こうした美術品は、スタイルにおいて物語よりも叙情的であり、多くの場合、詩に近い表現が用いられていました。これはクリムトの詩的な美術観にも通じるものでした。
喜多川歌麿画 「南国美人合」 此すミ|The Courtesan Konosumi, from the series “Beauties of the Southern Quarter”(Nangoku bijin awase)(ca. 1793–94) - 作者: Kitagawa UtamaroThe Metropolitan Museum of Art
クリムトは「扇を持つ女」の制作にあたって、この歌川国丸の版画を含め、広く流通していた遊女の半身像を参考にしました。浮世絵の巨匠たちのように、クリムトはモデルの白い肌、ピンで留めた髪、衣服に重点を置いて肖像画を描きました。
Gustav Klimt's studio at the Feldmühlgasse 11(1918) - 作者: Moriz NährAustrian National Library
クリムトは、「扇を持つ女」を未完のまま残して生涯を閉じました。1918 年 1 月 11 日、彼は脳梗塞を起こし、そのまま 2 月 6 日に死去しました。「扇を持つ女」はイーゼルに立てかけられたままでした。クリムトの死の直後にモーリッツ ネーアが撮影したと思われる写真には、「扇を持つ女」と、彼の傑作の一つである「花嫁(Die Braut)」が並んで写っています。
Lady with Fan(1917/1918) - 作者: Gustav KlimtBelvedere
「扇を持つ女」は一見すると完成品のように見えますが、近くでよく見ると、短時間で塗られたために仕上げが十分でないことがわかります。
また、上腕の肌と大まかに塗られたドレスの間のキャンバスが塗られていないなど、明らかに未完とわかる細かい部分が複数存在します。背景の細部も仕上げられていません。
突然の死によって制作を中断されなければ、クリムトは間違いなくこうした細部の仕上げを行っていたでしょう。一方で、クリムトが確立した仕事のやり方は、彼自身が作品の全体的な印象に納得しさえすれば、たとえ多かれ少なかれ未完の部分があったとしても、作品を展示し、場合によっては販売さえするというものでした。その意味で、「扇を持つ女」は、クリムトの後期のスタイルが持つ美学を余すところなく体現した完成品と見なすこともできます。
Markus Fellinger - Belvedere, ウィーン