100年の時を超え世の人が嬉しくなる酒を

岩手・世嬉の一酒造の挑戦

世嬉の一酒造 代表取締役社長 佐藤航(わたる)さん出典: 世嬉の一酒造株式会社

岩手県一関市、平泉地区。12世紀に「平泉文化」と呼ばれる独自の地方文化が花開き、東北の文化拠点として栄えた地だ。世嬉の一酒造は、そんな平泉の地で酒造りを続けるつくり酒屋だ。

製麴(せいきく)出典: 世嬉の一酒造株式会社

岩手を二分する酒蔵 

世嬉の一酒造が生まれたのは1918年。最盛期には岩手を二分する規模の酒蔵として知られ、現在はビールやジン製造、郷土料理店の運営なども手掛け、酒を中心に地域の食文化を広く伝えている。しかし、4代目蔵元の佐藤航(さとう・わたる)は、蔵の歴史は決して順風満帆なものではなかったと言う。

酒の民俗文化博物館出典: 世嬉の一酒造株式会社

酒造りは儲からない

「2代目である祖父の時代には、太平洋戦争の影響や2年続けて洪水に襲われたこともあり蔵の経営は厳しくなっていきました。酒の売り上げも低迷し、祖父は『酒づくりは儲からないからやめろ』と遺言に残したほどです。

父が3代目として蔵元を継いだあとも経営難から、自社単独での酒造りを諦め、他の酒蔵と共同の工場で酒をつくる共同醸造にシフトして生き延びました。バブル期には酒蔵を売ってスーパーやホテルにする話もあったのですが、父は経営していた自動車学校を売却して蔵を残すことを決めたんです」

蔵元レストラン せきのいち「果報もち膳」出典: 世嬉の一酒造株式会社

「現金収入を生むため蔵をレストランや売店にリニューアルし、小売や飲食店を始めたんです。レストランは最初、割烹料理の店としてオープンしたのですが、それに疑問を持った母が郷土料理店に変えたんです。

割烹なら京都や東京にもっと美味しい店があるのだから、都会と競争するのではなく田舎ならではの魅力を打ち出すべきだと。当時の板前たちは『郷土料理なんて料理じゃない』と辞めてしまったのですが、それでも両親は蔵を継続するため必死に走り回っていました」

酒の直売所 せきの市出典: 世嬉の一酒造株式会社

オリジナリティは足元にある

そんな父母の姿を見て育った佐藤は、東京でコンサルタントとして経験を積み、30歳の頃に地元へ戻ることになる。都会に追従せず地元に根差した文化を伝えるという母の哲学は息子にも受け継がれていた。

「最初に私が取りかかったのは、父が立ち上げたビール事業の立て直しです。私たちが一関でビールを作る意味を考えたら、土地の食材こそが個性になると思い至ったんです」

酒の直売所 せきの市 ビールやジンも並ぶ出典: 世嬉の一酒造株式会社

陸産牡蠣を使った<オイスタースタウト>、一関の山椒を使った<山椒エール>。土地の個性を体現する斬新なクラフトビールは海外へも輸出され、各国で人気を集めている。最近は地元産のボタニカルを漬け込んだクラフトジンも人気だ。佐藤は経営者としてのモットーを「競争しないこと」と語る。

世嬉の一酒造 代表取締役社長 佐藤航(わたる)さん出典: 世嬉の一酒造株式会社

「市場の競争に乗らないためには、オリジナルな存在でないといけません。オリジナリティをゼロから作り出すのって難しいです。でも、土地の文化に目を向ければ自分たちのオリジナリティは、そこにすでにあるんですよね」

蔵元レストラン せきのいち「手切りはっと膳」出典: 世嬉の一酒造株式会社

「一関には餅料理などユニークな食文化があり、食材も豊富です。新鮮で美味しい食材が安価に手に入るなら、使わない手はありません。そうした視点で地元を見ていくと面白い生産者にも出会えるし、仕事もどんどん面白くなっていきます」

ビール事業の成長とともに、佐藤は日本酒造りやレストランなど全体の経営にも参画するようになる。しかし、父との衝突は絶えなかったという。

蒸米をクレーンで吊り上げる出典: 世嬉の一酒造株式会社

「全社員の参加する会議で父親と大喧嘩して、私が会社を飛び出したんです。他の仕事に就こうかとも考えたのですが、私が離れてから業績が下がり始めていき、社員も離れてしまった。これじゃいけないと、再び会社に戻ったそんな矢先、震災が来たんです」

2011年3月11日。関連死を含め死者・行方不明者が2万人となる、戦後最悪の自然災害、東日本大震災が日本を襲ったのだ。4分以上続く縦揺れは古い土蔵をつぎつぎと崩し、酒の入ったタンクが倒れていった。

酒の民俗文化博物館の天井出典: 世嬉の一酒造株式会社

「しばらくは電気が止まり電話もメールもできない状態でした。営業もできないので、お客様へ酒が届けられず申し訳ないと毎日手紙を書いては送る日々でした。店の食材で炊き出しをして配ったり、津波被害を受けた沿岸部に物資を届けたり。何か動いていないと、不安でおかしくなりそうでしたから。

世嬉の一酒造 杜氏の三浦健太郎さん出典: 世嬉の一酒造株式会社

世嬉の一酒造の杜氏を務める三浦健太郎(みうら・けんたろう)は、震災当時の様子をこう振り返る。

「揺れが来たのが午後の2時46分。ちょうどその年の最後の酒絞りが終わる日でした。10年前、僕が蔵人として酒造りに関わり始めて間もない頃。

酒を絞りおわった日で、蔵人たちで酒を飲んでお祝いしようと話していたんです。タンクが倒れびんも割れ、絞り終えた酒が流れていくのをどうすることもできず眺めていました」

世嬉の一酒造 製麹(せいきく)出典: 世嬉の一酒造株式会社

世の人が喜ぶ酒を

震災を機に会社全体がまとまったと佐藤は言う。

「震災後、父は寝込んでしまい、実質僕が経営を引き継ぐことになりました。翌年に正式に4代目の蔵元に。なったのですが、震災を機に社員が再び団結し、会社全体がまとまったのは確かです。もはや喧嘩なんてしている場合じゃなかったですから」

世嬉の一酒造 杜氏の三浦健太郎さんと、蔵人のみなさん出典: 世嬉の一酒造株式会社

震災の日から10年。世喜の一は復活に向けて年を重ねるごとに社員の給料を上げていくと決め、その通りに成長を続けてきた。佐藤は、社員それぞれが震災を機に成長した結果だと語る。

世嬉の一酒造 製麹(せいきく)出典: 世嬉の一酒造株式会社

「今後は100周年記念の事業として、敷地の酒蔵で再び自社独自の酒づくりを復活させる準備を進めています。

酒においても、私たちの土地のルーツに遡り、オリジナルな存在を目指したいのです。私が思ういい酒とは、体に良いものです。美味しいものを突き詰めて考えると、それはつまり体が嬉しいと感じるものだと思うんです」

世嬉の一酒造 4代目蔵元の佐藤航さん(左)と、3代目 佐藤晄僖(こうき)さん(右)出典: 世嬉の一酒造株式会社

「戦争があり、災害があり、時代とともに酒が売れなくなっているとも言われます。酒造りを諦めかけた危機はいくつもありましたが、それでも親父は蔵を残すために必死に働いてきた。

喧嘩して私が会社を飛び出してから、父と正式に和解したわけではないんです。でもどちらも間違ったことは言っていないとお互い分かっています。私も父も、世の人が嬉しいと思うものを作り、地域を盛り上げたいという思いは同じですから。

純米大吟醸 秘蔵(左)、純米吟醸 「吟ぎんが」(右)出典: 世嬉の一酒造株式会社

『世嬉の一』という名前は「世の人々が嬉しくなる一番の酒を造る」という意味だ。創業者の時代、蔵を訪れた皇族に授かった名前だという。

伝統を受け継ぎ挑戦を続けながら、いくたびの苦難から立ち上がってきた、世嬉の一酒造。そこには人のためにという100年前から続く思いが受け継がれている。

提供: ストーリー

協力:
世嬉の一酒造
岩手銘醸


文:山若マサヤ
撮影:久富健太郎
編集:林田沙織
制作:Skyrocket 株式会社

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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