隠元隆琦(1592~1673)は黄檗宗の開祖。中国福清(福建省)の黄檗山萬福寺(古黄檗)に登り、密雲円悟・費隠通容等に師事。のちに費隠の法を嗣いで萬福寺の住持を務め、中国禅宗界で名声を得た。逸然性融の招請を受け、承応3(1654)年に来日。逸然より長崎崇福寺の住持として迎えられ、明暦元(1655)年に摂津の普門寺に住した。万治元(1658)年、江戸に出て将軍徳川家綱に拝謁し、寛文元(1661)年に宇治の地(京都府宇治市)を与えられ、黄檗山萬福寺(新黄檗)を創建。日本禅宗に新たに黄檗の一派を開いた。同4年、木庵性瑫に後席を譲り、黄檗山内の松隠堂に退隠。中国の萬福寺を古黄檗と呼ぶのに対し、日本の萬福寺は新黄檗と称される。
隠元のもたらした黄檗宗は明代の禅宗儀礼の実践や建築文化を通じ、日本禅宗界に大きな刺激と影響を与えた。月舟宗胡・徳翁良高・独庵玄光ら曹洞宗の禅僧も多数隠元に参禅している。また詩偈に長じ、唐風の優れた書を多数残し、弟子の木庵性瑫、即非如一とともに「黄檗三筆」として名高い。
「寿字賛」は寛文11(1671)年、隠元が80歳を祝して書したもの。「寿」と大書し七言の対句を記す。「松堂」は隠元が退隠した松隠堂を指す。