三代目の時代は輸出用陶器が主力でした。舩木窯の敷地内に多くの小屋があり、当時は分業制でしたので大勢の人が働いていました。正式な職人の数は20数名いたと舩木窯には記録が残っています。他にも当時この一角には11、2軒の窯があり、職人たちが各窯を回っていたので、舩木窯に関わる人数は延べ二百数十人はいました。江戸時代は松江藩の庇護を受けて、お茶道具を作る御用窯が数軒あり、舩木窯のような民間の窯は北前船に出荷する雑器などを作っていました。ところが藩の庇護が受けられなくなり御用窯が衰退すると、明治になって民窯が勢いづき、博覧会に出品したり陶器の輸出を始めた頃には、舩木窯が布志名近辺の窯の指揮を執るようになりました。そしてそれが大正時代まで続きました。