越後の国の麻布生産の記録は古代にまでさかのぼることができます。正倉院には8世紀半ばの年記のある越後の「庸布」があります。それが途絶えることなく続き、江戸時代の中頃には「縮」(ちぢみ)が越後の主要産品となりました。緯糸に強撚をかけ、仕上げで縮みを与えるのでこの名前で呼ばれます。寛文年間に明石藩の堀次郎将俊氏がこの技法方法を考えたとされています。
技術が完成したことから堀は小千谷の町に移り、縮布の生産を現在の小千谷市・魚沼市・南魚沼市に伝えました。享保年間には十日町では問屋組合が出来たり、大都市の大きな呉服問屋との取引が始まったようです。冬になると縮織りは地域のほとんどのところで織られるようになりました。文化年間(1804-1818)頃までには年中縮を織る村や、男性も縮の仕事をするようになっていました。
一般的に麻類は、湿気があることでしなやかで強くなります。特に極端に細い越後上布用の麻糸は、湿気がなければ織ることが不可能なのです。江戸時代の越後の文人 鈴木牧之(すずきぼくし)の『北越雪譜』の中にも「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に注ぎ、雪上に晒す。雪ありて、縮あり、されば、越後縮は雪と人と気力相半ばして名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親といふべし」と記されています。