心越興儔(1639~1695)は江戸前期の曹洞宗の禅僧。東皐とも号し、東皐心越の名でも知られている。長崎興福寺4世の明僧・澄一道亮の招きで延宝5(1677)年に来日。当初は黄檗宗徒の排撃を受け興福寺内に幽閉されるが、徳川光圀の帰依を受け水戸の天徳寺に迎えられ中国伝来の宗風を振るった。天徳寺は後に祗園寺と改め、心越が中国より伝えた曹洞宗寿昌派の拠点なった。書画・篆刻に長じ、篆刻では黄檗の独立性易と並んで「篆刻の祖」と称された。とくに聯額が好まれ、心越揮毫の山号額・寺号額などが各地の寺院に残っている。また七絃の琴(一説に三絃)を得意とし、琴にも門下が多数集まるなど多くの中国文化を招来した。
本資料は竹・蘭・石を水墨で描き、その清閑・幽玄なさまを表現したもの。箱書に「鶴鳴館蔵」とある。