物外不遷(1794〈1795〉~1867)は江戸後期の曹洞禅僧。伊予国出身。泥仏庵と号す。宇治興聖寺で修行し、文化11(1814)年江戸吉祥寺の旃檀林で仏教学を研修。35歳の時に備後済法寺に住し、元治元(1864)年までつとめた。
体躯五尺七寸(約173㎝)あり、世に「拳骨和尚」と称されるほど武芸に優れた。物外の怪力の逸話は各地にあるが、永平寺の中雀門の向かって右から2本目の柱の傷跡は物外が若い頃永平寺で修行していた時、ささいなことでたたいた平手の跡だという言い伝えがある。また幕末の京都で新撰組の近藤勇を負かしたという逸話もある。尾道の済法寺では禅道剣術で知られ、多くの名士が競って指南を求めたという。不遷流の祖として一派を成した。行動は逸話奇行に満ち、書画や風雅の道にも達し、囲碁・将棋・生花・茶道もたしなんだ。その画風は軽妙洒脱の境地と評される。
本達磨図の賛は「達磨不会禅 夫子不知字」。不会とは「不会仏法」のように用いられ、知的にも行的にも会得せず素直に全て受け取るという意味で会得の徹底を表している。夫子は孔子を指し、「不知字」とすることで文字に精通していることを表している。