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沢庵宗彭筆 書状

沢庵宗彭

駒澤大学禅文化歴史博物館

駒澤大学禅文化歴史博物館
世田谷区, 日本

沢庵宗彭(1573~1645)は江戸前期の臨済禅僧。但馬国出身。幼少で出家し、のちに大徳寺三玄院の春屋宗園に参学し宗彭と名乗る。慶長8年(1603)には堺の陽春寺の一凍紹滴に参じ、印可とともに沢庵の号を受けた。同12(1607)年、37歳の若さで大徳寺153世に出世するが、わずか3日で辞す。この後、の南宗寺や郷里但馬の宗鏡寺をはじめとする各地に閑居した。
寛永3(1626)年、徳川秀忠は大徳寺・妙心寺の奉勅出世(勅許による出世)を禁止したが、沢庵は権力に対して超然とした態度で臨み、幕命を無視して同門を大徳寺に出世させた。沢庵は幕府に再三抗弁し、その政策を批判するが、天皇の紫衣勅許問題に発展し、後水尾天皇は退位した(紫衣事件)。
沢庵は紫衣事件に連座し、寛永6(1629)年に出羽国上山(山形県)に流される。3年間の配流生活ののち、大御所秀忠の死による大赦令によって赦免。以後、後水尾上皇や徳川家光の厚い帰依を受け、同14(1637)年、家光は沢庵のために品川に東海寺を創建し、沢庵を開山とした。
沢庵の大徳寺派茶人としての活動や、詩文や墨蹟には定評がある。また柳生宗矩をはじめとする剣豪との逸話も多く、著書『不動智神妙録』は宗矩のために剣と禅の関係を説いたものである。
この書状は徳庵(未詳)なる人物宛ての書状。また厚徳院沢庵と署名があるが厚徳院も未詳。沢庵の師一凍が創建した堺の厚徳庵、あるいは紫衣事件赦免後に一時身を寄せた江戸神田広徳寺のことか。
内容は、まず昨日の面会の礼を述べ、そのときの談義については改めて沢庵の考えを使僧を遣わして徳庵に伝えるとの旨が記されている。また書状の追伸(冒頭の記述)で茶について触れているが、禅僧たちの生活で飲茶が日常的な行為であったことがうかがえる。

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  • タイトル: 沢庵宗彭筆 書状
  • 作成者: 沢庵宗彭
  • 実際のサイズ: 総丈H108.0×W92.0本紙H29.0×W84.0
  • 媒体/技法: 墨書
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