風外本高(1779~1847)は、江戸後期の曹洞宗の禅僧。玄楼奥龍の法を嗣ぐ。文政元(1818)年大阪の円通院、天保5(1834)年三河の香積寺25世に住持し、同12(1841)年、浪花の烏鵲楼(うじゃくろう)に隠棲。玄楼の遺風を受けて機峰峻厳・行持綿密な宗風であり、その門下からは諸獄奕堂(もろたけえきどう)・原坦山(はらたんざん)など、明治時代の禅匠を輩出した。
瑞岡珍牛や寂室堅光らとともに、曹洞宗の代表的な画僧として知られ、戯画的なものから、月倦や池大雅の画風の影響を受けた本格的な山水画も描いた。「穴風外」こと風外慧薫(1568~1654?)に対し、風外本高はその落款署名の形が蛸に似ていることから「たこ風外」と称される。
天保7(1836)年9月8日、香積寺の風外が瑞龍堂頭(住職)に宛てた書状。冒頭に「君が住む…」と友人を慕う意を込めた和歌を記し、このたび本山の使いから近況をうかがい、拝顔同様の喜びであったことを伝えている。瑞龍は富山県高岡市の瑞龍寺か。