瑞岡珍牛(1743~1822)が描き、豪潮(1749~1835)が着賛したもの。
瑞岡珍牛は江戸後期の曹洞禅僧。肥後国出身。牛懶野などと号す。文化4(1817)年、尾張藩主徳川斉朝に請われ名古屋に万松寺を開く。文政3(1820)年に退き、同国慶雲軒を開く。江戸後期を代表する書画に秀でた曹洞禅僧である。多くの書画を残したほかにも、『訂補建撕記図会』(1806年)や『永平道元禅師行状図会』(1809年)などに挿絵を付し、道元絵伝の普及に功績を残した。
豪潮は江戸後期の天台僧。肥後国出身。無所得道人・磨墨山人・洞龍・一睡亭などと号す。書画詩歌に秀で、また各地に宝篋印塔(供養塔)を建立し、その数2,000基余りという。瑞岡珍牛、仙厓義梵をはじめとする禅僧や、公武・文人たちと広く交流を持った。文化14(1817)年、名古屋藩主徳川斉朝の病気平癒の祈祷のため、豪潮は肥後から名古屋に招かれた。その後、知多の岩屋寺や名古屋城鬼門祈願所の長栄寺の住持をつとめた。
本図は珍牛・豪潮という当時を代表する画僧の合作である。文政2(1819)年、珍牛が万松寺に、豪潮が岩屋寺にいた時の作品。豪潮の名古屋招請は珍牛の推薦によるものが大きかった。
画題となっている寒山と拾得は唐代の伝説的な隠者で、天台山国清寺(浙江省)に隠棲した。二人は物乞い同然の風体であったがその言行は仏意に通じ、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身とされた。天台山で飯炊きの仕事をしていた拾得のところに忽然と現れたのが寒山だという。寒山と拾得の風狂な逸話を画題とした「寒山拾得図」は禅院で大いに好まれ、作例も多い。本図のように寒山は経巻(または筆)を持ち、拾得はほうきを持った(または天を指さした)姿で描かれることが多い。