策彦周良(1501~1579)は戦国時代の臨済宗の禅僧。謙斎・亀陰等と号す。大内義隆の命で遣明使節として2度にわたって明国に渡航した。大内義隆・織田信長らの戦国大名に信任され、織田信長の嘱で岐阜の地名を撰したといわれている。また武田信玄の要請で甲斐の恵林寺に住した。のち天龍寺妙智院に退隠。入明の記録は『策彦入明記』として克明に記録され、日明交易史の貴重な資料となっている(国指定重要文化財、妙智院蔵)。詩文に秀で『謙斎詩集』等を著す。仁如集尭とともに五山文学の最末期を飾った禅僧。
本資料は「晩に西湖を過ぐ 二首」(通称「西湖詩」)と呼ばれ、在明中の策彦が西湖の情景を詠んだ漢詩文である。西湖(現浙江省杭州)は古くから西湖十景等と称された景勝地で、詩の題として取り上げられている。西湖詩は策彦の漢詩の中でも有名なもので、天龍寺妙智院をはじめ同様のものが何点か現存している。西湖詩を所望する者に策彦が書き与えたのであろう。本紙上部に紙の傷みが見られ1字目が欠損している行がある。天龍寺妙智院所蔵等の他の西湖詩から欠を補った(田山方南編『禅林墨蹟 拾遺』思文閣、1978年)。
なお本資料は小松茂美編『日本墨蹟大鑑 第十巻』(講談社、1978年)に掲載。