琉球王国とは、1429年から1879年までの450年間わたり存在した王制の国です。その王国の政治・外交・文化の中心とした栄華を誇ったのが首里城です。
2019年10月31日、首里城正殿を含む建物8棟が焼損しました。
奉神門(ほうしんもん)
「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年に外観が復元されました。 別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいいます。向かって左側(北側)は「納殿(なでん)」で薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、右側(南側)は「君誇(きみほこり)」で城内の儀式のとき等に使われました。 3つの門のうち中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)等限られた身分の高い人だけが通れる門です。それ以外の役人は両側の門から入城しました。
御庭(うなー)
御庭は年間を通じて様々な儀式が行われた広場です。御庭には磚(せん:敷き瓦)というタイル状のものが敷かれていますが、この色違いの列は、儀式の際に諸官が位の順に並ぶ目印の役割をもっていました。
正殿(せいでん)
正殿は首里城の中心的な建物です。木造三階建で一階の「下庫理(しちゃぐい)」は、主に国王自らが政治や儀式を執り行う場でした。二階の「大庫理(うふぐい)」は国王と親族、女官らが儀式を行う場で、三階は通気のため設けられた屋根裏部屋です。
北殿(ほくでん)
王府の中央行政庁として、日常では大勢の官人が出入りし、首里城の中で最も活気ある館でした。また、中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」を接待する場としても使用されました。その他にもペリー提督が首里城を訪問した際に、歓迎の宴が催されました。
南殿・番所(なんでん・ばんどころ)
向かって右側が「番所」、左側が「南殿」です。「番所」は、正殿を訪れる人びとの受付や国王への取り次ぎ等を行った場所で、「南殿」は主に日本的な儀式や薩摩藩の接待所として使用されました。
書院・鎖之間(しょいん・さすのま)
書院は国王が日常の執務を行った建物でしたが、冊封使(さっぽうし)や那覇に在住の薩摩役人を招き、ここで接待することもありました。鎖之間は、王子などの控所であり、諸役の者たちを招き懇談する施設だったといわれています。
書院・鎖之間庭園
沖縄県内のグスクの中で、史実として確認された唯一の庭園です。2002年度から発掘調査や絵図資料の分析を行い、緻密な工事監修を経て、2008年8月から一般公開していました。2009年7月には国の名勝に指定されていました。
奥書院(おくしょいん)
国王が執務の合間に休憩した建物であり、建物の南側には庭園があります。2014年に復元後は、休憩や庭園観賞ができる場所として利用されていました。
近習詰所(きんじゅうつめしょ)
表(行政)空間と奥である御内原(生活)空間を結ぶ建物で、南殿と黄金御殿の二階分を連結しており、内部には錫引きと呼ばれる部屋がありました。用事の際には鈴が鳴らされ、取次役が用件を受けました。
黄金御殿(くがにうどぅん)
黄金御殿は、国王や王妃・王母のプライベートゾーンで、二階には居間や寝室がありました。建物の創建年は不明ですが、1671年の首里城再建の記録に「金御殿」の記述がみられます。さらに1709年に正殿はじめ多くの建物とともに焼失し、1715年までに再建されたことがわかっています。建物は二階部分で正殿・二階御殿・近習詰所とつながっていました。
二階御殿(にーけーうどぅん)
二階御殿は、国王の日常的な居室として使われていました。段差のある地形にあわせて北側は二階建、南側は平屋建になっており、二階内部は床の間や違棚(ちがいだな)のある書院風の造りでした。
御内原(おうちばら)
正殿の東側一帯は「御内原」と呼ばれ、国王とその家族、そこに仕える多くの女性が暮らす男子禁制の場でした。正殿を境に、西側が政治や外交を中心とした世界であったのに対し、ここは女性がすべて取り仕切るいわば「奥」の世界だったのです
龍潭(りゅうたん)
「龍潭」は1427年に造られた人工の池です。 かつてこの付近に建てられていた沖縄最古の碑文「安国山樹華木記(あんこくざんじゅかぼくき)」によれば、国相懐機が中国におもむき、造園技術を学んでこれを造ったとされています。 碑文には「安国山に龍潭を掘り、香りのする木や花を植え、万人が利用できるようにして太平の世のシンボルとして永遠の記念とした」などと記されています。当時、庶民がくつろいでいた名勝であったことがうかがえます。 ここでは中国皇帝の使者・冊封使を歓待する船遊びの宴も行われました。