越前和紙

神の授けをそのまま継いで 親も子も漉く孫も漉く ——越前紙漉き唄

作成: 京都女子大学 生活デザイン研究所

京都女子大学 生活デザイン研究所

越前和紙《秋葉山からの五箇遠景》画像提供:紙の文化博物館(2010)京都女子大学 生活デザイン研究所

越前和紙の里

福井県越前市の越前和紙の里。ここは不老(おいず)、大滝、岩本、新在家、定友の五つの集落で形成され、水源豊かな山々に囲まれた「五箇」として知られます。

越前和紙《岡太神社・大瀧神社(里宮)》画像提供:紙の文化博物館京都女子大学 生活デザイン研究所

西に国府が置かれた武生盆地、山一つ超えた南には古墳群を有する味真野を臨み、越前でも早くから開発の進んだ地域でした。そして紙の神様、いわゆる紙祖神の古い伝説を持っています。後の継体天皇が越前の地にいた頃、岡太川の上流に女神と思われる美しい姫が現れ、「この村里は谷間であって田畠少なく生計を立てるには難しいが、清らかな谷水に恵まれているから紙を漉けばよいであろう」と、自ら上衣を脱ぎ、竿にかけ、紙漉の技を教え、村人が名を尋ねると、岡太川の川上に住む者と答えただけで姿を消したというものです。

越前和紙《岡太神社・大瀧神社(奥の院)》画像提供:上島晃智氏(大正末~昭和初期頃)京都女子大学 生活デザイン研究所

以後、村人は女神を岡太川上流の岡太神社で紙祖神・川上御前としてあがめました。1923年にはその由緒の古さから大蔵省印刷局抄紙部に分霊が祭祀され、全国の紙業界の総鎮守となりました。

越前和紙《横山大観の揮毫》画像提供:上島晃智氏(1940)京都女子大学 生活デザイン研究所

また、一の鳥居の社標は越前和紙を愛用した日本画家・横山大観によって1940年頃に揮毫・寄付されました。

越前和紙《「奉書」の抄造風景》撮影:岩永照博(2017)京都女子大学 生活デザイン研究所

越前和紙の歴史

お殿様でも将軍様も 五箇の奉書の手にかかる(越前紙漉き唄)。この唄にある「奉書」は公文書などに使われた紙で、越前和紙は他に代表的なものとして滑らかな地肌を持つ「鳥の子紙」や、漉き模様紙の「打雲」、「水玉」などがあります。

越前和紙《「奉書」の抄造風景》撮影:岩永照博(2017)京都女子大学 生活デザイン研究所

中世には斯波、朝倉家、江戸時代には越前松平家の庇護のもと、朝廷、幕府、諸藩とも深い繋がりを持ちました。

越前和紙《「奉書」の抄造風景》撮影:岩永照博(2017)京都女子大学 生活デザイン研究所

越前和紙《「奉書」の抄造風景》撮影:岩永照博(2017)京都女子大学 生活デザイン研究所

越前和紙《一枚起請文》紙の文化博物館所蔵(1754)京都女子大学 生活デザイン研究所

五箇は藩札の抄造にも深く関っています。

越前和紙《福井藩札》福井市立郷土歴史博物館所蔵(慶應年間)京都女子大学 生活デザイン研究所

福井藩のほか、福井藩の了解を得て隣接の丸岡藩や親藩の間柄である尾張藩の藩札をそれぞれ原料や製法を変えて抄造することもありました。

越前和紙《太政官札》福井市立郷土歴史博物館所蔵京都女子大学 生活デザイン研究所

古くから高級美術紙や札紙漉き立ての実績があり、産地が一カ所にまとまり短期間での大量生産や厳重な管理体制が可能であったため、明治新政府が日本で初めての全国通貨・太政官札を発行したときも、用紙は五箇が一括注文を受けました。

紙幣との繋がりはその後も続き、太政官札の抄造に関った紙漉工7名が日本固有の紙幣用紙の開発のため大蔵省紙幣寮抄紙局(1878年に印刷局と改名)に登用され、溜め漉きの印刷用紙を完成、日本の近代紙幣の基礎を築きました。中央の最先端の技術は五箇にも還元され、印刷局の紙に倣った溜め漉きの鳥の子紙や印刷紙は当地近代化の起爆剤となりました。

越前和紙《ウィーン万国博覧会進歩賞牌賞状(小林清作)》(有)越前製紙工場所蔵(1873)京都女子大学 生活デザイン研究所

明治期の五箇の和紙業界は動力の使用や製紙の改良で順調に生産量を伸ばし、国内外の博覧会や共進会で優秀な成績を納めました。

越前和紙《明治時代工場(西野製紙所)》画像提供:紙の文化博物館京都女子大学 生活デザイン研究所

その一方で大量廉価に輸入される良質な洋紙に対抗するため、五箇でも粗製濫造が行われるようになりました。 越前和紙中興の祖といわれる初代岩野平三郎(1878〜1960年)が、最も品質を問われる画紙の開発に取り組んだのは、廉価品を大量生産する時代のことでした。

越前和紙《珠𨿸》(絵:小杉放菴)福井県立美術館所蔵(1936)京都女子大学 生活デザイン研究所

岩野平三郎と日本画紙

明治〜大正期に、日本画を描くとすれば、その支持体は中国紙や絵絹が主流でした。五箇では浮世絵用が明治に入って日本画専用となった楮と雁皮の「雅邦紙」、奉書系の画紙「画奉書」、「大昴紙」、「栖鳳紙」などが作られ、初代岩野平三郎もその抄造に関わりましたが、いずれも画紙としては努力の余地が残るものでした。 初代岩野平三郎が日本画用の和紙、つまり「日本画紙」の開発に本格的に取り掛かったのは大正半ばのことです。

日本画家や学者たちの意見を参考に様々な日本画紙を生み出していきましたが、絹本が紙本より尊ばれ、市価が高くなるという因習のため、日本画紙の地位は低いものでした。事態が好転したのは、1926年に初代岩野平三郎が天平時代の「麻紙」を再現してからのことでした。麻紙は東洋史学者・内藤湖南(1866〜1934年)の求めに応じて作られましたが、もっと精良品となれば必ず文墨用として一つの革新を起こすと学者や日本画家の意見が一致し、画紙化されることとなりました。

麻紙が今までの日本画紙を劇的に変えるものと鋭くも見抜いた横山大観(1868〜1958年)は、皇后陛下への献上画に用いるほか、宮家への日本画紙献上の仲介をし、それが久邇宮家御殿の天井画・襖用紙への注文へと繋がりました。また、王子製紙社員・三番三郎は麻紙の特許認可の報を聞き、「数千年来支那の支配下にありし本邦画紙の独立を得国家の為慶福に耐えず候」(1928年4月7日付書簡)と祝福の言葉を寄せ、麻紙こそが中国紙に替わる紙と期待しました。

越前和紙《謹製の様子》画像提供:岩野平三郎家(1928)京都女子大学 生活デザイン研究所

和紙の恒久性

1928年、初代岩野平三郎は昭和天皇即位御大礼に使われる悠紀・主基地方風俗歌屏風の料紙制作の下命を受けました。横山大観や川合玉堂の推薦があったほか、その頃には絵絹より和紙が保存性に優れ、機械漉きより手漉きの和紙が強靭であるという認識が和紙の愛好者のなかには浸透していました。この紙は原料を厳選し紙漉き唄を唄いながら漉かれ、川合玉堂と山元春挙による大和絵が描かれました。

越前和紙《謹製者及関係諸員》画像提供:岩野平三郎家(1928)京都女子大学 生活デザイン研究所

しかし、当時は木材パルプを混入した機械漉きの大量生産が主流で、商人側の発言力も強かったため、手間暇かけて作る手漉きの紙の値段は抑えられていました。そのようななか初代岩野平三郎は親戚の八代岩野市兵衛(1901〜1976年)に「お前は生漉き奉書一筋にやれ、欲も得も離れてやらねばいかん。そうしないならやめてしまえ」と助言しました。八代岩野市兵衛はその言葉通りに製法を守り続け、戦後「越前奉書」で国の重要無形文化財保持者となりますが、質と量をごまかさない和紙作りは世間にあらがう厳しいものでした。初代岩野平三郎、八代岩野市兵衛の紙作りへの厳しい姿勢は越前和紙の評価を高め、水上勉の小説『弥陀の舞』のモデルとなりました。

越前和紙《岡大紙》画像提供:岩野平三郎家(1926)京都女子大学 生活デザイン研究所

越前和紙の大紙抄造

越前和紙は、大きさへの挑戦を続けています。 江戸時代の越前和紙の大紙は、文献上で1660年の9尺四方の鳥の子紙、1783年の7.5尺四方の打雲紙、1787年頃、江戸幕府に上納された縦1.58×横3.21尺の間似合紙などがあります。現存する大紙は1783年の鳥の子打雲紙で、越前市が保管しています。五箇では1885年に高野製紙場が襖一枚張の大紙抄造に成功し、明治期にはその大きさの和紙が流通しました。1926年に初代岩野平三郎が「麻紙」を開発し、同年、当時世代最大の5.4m四方の早稲田大学図書館壁画用紙「岡大紙」(おかふとかみ)が抄造されました。この紙に横山大観と下村観山による《明暗》が描かれ、和紙が絵絹や中国紙の大きさを遥かに上回ることが示されました。

越前和紙《平成大紙》画像提供:紙の文化博物館(1989)京都女子大学 生活デザイン研究所

1989年には、和紙の魅力を題材にしたイベント「IMADATE展」の作品用紙として、7.1×4.3mの「平成大紙」(へいせいたいし)が福井県和紙工業協同組合の指導と上山製紙所の協力で抄造されました。この紙には、ハビエル・マリスカル(スペイン)、元永定正ら国内外6人の芸術家による7点の作品が描かれ、展示されました。

越前和紙《「工芸紙」の抄造風景》(2017)京都女子大学 生活デザイン研究所

越前和紙の展望

越前和紙の里は、奉書と鳥の子紙という二枚看板に、多彩な漉き模様や染め、加工技術が加わり、手漉きと機械漉きが共存する伝統工芸の産地となっています。

越前和紙《九代岩野市兵衛》画像提供:紙の文化博物館京都女子大学 生活デザイン研究所

現在35人の伝統工芸士がおり、九代岩野市兵衛が「越前生漉奉書」で無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)となっています。

越前和紙《様々な工芸紙》(2017) - 作者: 山田製紙所京都女子大学 生活デザイン研究所

越前和紙《ディスプレイに使われる越前和紙》 画像提供:株式会社杉原商店 杉原吉直氏(2011-10-19/2011-10-25)京都女子大学 生活デザイン研究所

岩野平三郎製紙所から戦後日本画界を席巻した紙「雲肌麻紙」が生み出され、各製紙所でも様々な新種の工芸紙が漉き出され国内外での展示で存在感を示す一方、岩野市兵衛家では木版画用紙として300回の重ね摺りにも耐える伝統の紙「越前生漉奉書」が作り続けられるなど、革新と伝統が共存しているのも、この産地の特徴です。

越前和紙《柳瀬晴夫氏》画像提供:紙の文化博物館(2016)京都女子大学 生活デザイン研究所

2015年3月、越前市は「越前生漉鳥の子紙保存会」を設立し、同年12月、福井県教育委員会は「越前鳥の子」を漉く技術を無形文化財(工芸技術)に指定しました。国産原料の確保が年々厳しくなるなか、保存会では和紙原料の雁皮の栽培を始めています。そして将来的には国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産追加登録を目指しています。

越前和紙《和紙の里通り》京都女子大学 生活デザイン研究所

越前和紙の里へようこそ

越前和紙の里には、東西200メートル程の「和紙の里通り」があります。「紙の文化博物館」では越前和紙の歴史や作品が展示され、江戸時代中期の紙漉の家屋を移築復元した「卯立の工芸館」では伝統工芸士が昔ながらの道具を使っての和紙を漉く様子を見ることができ、「パピルス館」では実際に和紙漉き体験ができます。全国的にも珍しい紙を素材にした現代美術の公募展「今立現代美術紙展」も開催されています。きっかけは、1976年、越前和紙の里に移住した現代美術作家・故河合勇と地元の若者との交流から始まりました。1300年を超える歴史を有する越前和紙の里を是非ご体感ください。

提供: ストーリー

【資料提供・協力】
・株式会社岩野平三郎製紙所
越前和紙の里 紙の文化博物館
株式会社杉原商店 杉原吉直
福井県立美術館
福井県和紙工業協同組合
・山口荘八
・山田製紙所

【監修】
・中川智絵(元越前和紙の里 紙の文化博物館

【テキスト】
・佐々木美帆(福井県立美術館

【英語サイト翻訳】
・黒崎 美曜・ベーテ

【サイト制作・編集】
・植山笑子(京都女子大学 生活造形学科
・永友花奈(京都女子大学 生活造形学科

【プロジェクト・ディレクター】
・前崎信也(京都女子大学 准教授
・山本真紗子(立命館大学文学部)

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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