「紫幹翠葉-百年の杜のアート」展の展示作品を紹介します。現代アーティスト達が、明治神宮や鎮守の杜に思いを寄せ、日本古来の様式で作品を制作。ここでは、扇面の作品を紹介します。(会期:2020年7月10日〜9月27日、開催場所:明治神宮ミュージアム)
「紫幹翠葉(しかんすいよう)-百年の杜のアート」について
「紫幹翠葉(しかんすいよう)」とは、紫の木の幹、緑の木の葉という意味から、景色が青々としていて美しい様子を表しています。縄文時代から日本人は、森や山に神さまを見出し、手を合わせて感謝する、それが自然に対する日本人の伝統的な態度でした。そして、富士山や桜だけでなく、田んぼや雑草、野鳥などといった日常の暮らしの風景に、美しさを見出してきました。 展覧会では、総勢40名の現代アーティストが、明治神宮やその鎮守の杜に思いを寄せ、自然や暮らしを対象に畏怖と尊敬、情熱を込めて制作した作品を中心に展示します。展示作品は、屏風、掛け軸、衝立(絵画)、扇面等、いずれも日本古来の様式に倣った形です。出品作品のうち、扇面形の絵画作品は、実力と才能を兼ね備えた注目の現代アーティスト30名に制作を依頼しました。
朝山 まり子『鯉桜』
山岳写真を撮っていた朝山まり子ですが、専門的なガーデニングの知識も兼ね備えていたことから、明治神宮の写真撮影を依頼することになりました。神宮の杜には234種約3万6千本もの樹木、約3千種の生き物が確認されていますが、彼女の眼には他の人が気づかない動植物にもきちんと眼が行き届いていることが写真からわかります。今回の扇面では1年間の風景から3点を選んで作品化しています。秋には絵画館で個展の予定があります。
石塚 隆則 『木を運ぶ人』
見えない「もの」や「こと」を可愛らしい動物のキャラクターにしてドローイングや絵画、彫刻そしてインスタレーションなど、幅広い作品制作を展開している作家です。コミカルで奇矯な動物たちが織り成す作風は国内外で高く評価されています。石塚隆則は、100年前の神宮の杜をつくっている当時の写真を見て、人々が大木を運んでいる姿に驚いたと言います。その驚きは、動物たちが木を運ぶ姿に造形化されました。本作は神宮の杜に想いを馳せ、「杜をつくる」とは何かを問いかけてくれます。
薄久保 香 『あの頃によろしく』
薄久保香は高度な描写力をベースに、現実と非現実、可視と不可視との間に浮かび上がるイメージを立ち上がらせる画家です。現実には遭遇しえないモチーフをコラージュすることで、ものごとに新たな関係性を付与し、もうひとつの現実を生み出しているかのようです。本作では画面が色面によりいくつかに分断されるほか、フォルムが繰り返され、画面の中に複数の空間が生じています。それらがシックなトーンにまとめられ、絵画はひとつの結晶のように輝きを得るのでしょう。
小沢 さかえ 『迷い茸』
小さな杜の動物やそこに流れる悠久の時間、そして自然の美しさと厳しさ。それらを独特の色づかいで絵画作品に結晶化する小沢さかえ。オーストリアのウィーン留学後に、その作風は力強さを増していきました。近年、文学者との共同作品が増えており、梨木香歩、保坂和志、藤野恵美らの物語を小沢の絵が豊かなものにしています。今回も100年前に人の手でつくられた神宮の杜に想いを寄せ、扇面型の画面に多くの物語を内包させながら杜の姿を描いています。
小津 航『橋に扇面流し図』
古今東西の美術様式を縦横無尽に採り入れ、自身の作品へと昇華する小津航。様式に溺れることなく、自分の興味のある対象をこっそり忍ばせ、大胆な色づかいとけっして濁らない色調をつくっていく作風は、明治時代の和魂洋才を思わせるものがあります。本作には、足利尊氏の扇面流しの故事を参照し、川に流れる扇子が描かれています。従来の扇は、開くにつれて絵が表れてくる時間の表現を含みますが、今回はそうした視線の動きを一枚の平面作品上に展開する構図の工夫がなされています。
海野 貴彦『神宮の杜の光源郷』
幾何学的な形を繰り返して描いてく文様のようなシリーズや、光の源を描く「光源郷」のシリーズがある海野貴彦は、現在、東京と松山を行ったり来たりして絵を描いています。それだけに留まらず、地域のためにアーティストができることを見つけ出し、地元の人々をアートに引き込み、一緒に行動を起こす。それらすべてが彼のアート作品となっています。今回は、神宮の杜の姿を丁寧に描いていますが、そのピュアな感性から生まれた作品は、すべてが清らかで美しいものとなっています。
清川 あさみ『TRACE』
清川は写真に刺繍を施すアーティストとして知られています。本作品も明治神宮の森の写真をベースに大都会の中心にあり100年前の人々の手によってつくられた神宮の杜の美しさを刺繍糸やビーズ等、様々な素材を用いて繊細になぞるように表現されています。清川らしい巧な色の構成力と愛情のある可愛らしさ、が溢れていて、この自然の美しさを今後も守っていきたいという思いを感じることができます。明治神宮の美しい杜と人々によって長く守られてきた自然への強い敬意が込められた作品となっています。
小瀬村 真美『枝垂れ芙蓉』
本作は作家の両親が日々手入れをしている庭で撮影され、同じ庭で梅雨の雨の日の弱い光を利用して、まる一日かけて現像された日光写真です。陽の光の強さや湿度などによって浮かび上がる色や像の現れ方が変わり、同じ作品は二度とつくることができません。その偶然性やかけがえのない一瞬を私たちは大切にしているのでしょうか。めまぐるしく変化する日々の生活の中で、杜を100年守った美意識、そして100年後も守るべき美意識とは何かを考えさせられる作品です。
小谷 里奈『雨露』
小谷里奈は、モチーフそのものよりも、周りの空気や情景に注目し、日常の些細な変化を自然のフォルムを手がかりに描いています。また、岩絵具の混色できない特性を活かし、パレット上ではなく画面上で混色を行う点描技法を採用しています。それは、液晶画面の原理と同じであり、絵具の鮮やかさが保たれます。こうした制作過程は、とりとめのないことに思いを馳せ、日記を書く行為にも似ています。
小林 孝亘 『森』
「光は、『存在』というものを実感できる状態に、私を導いてくれる」。これは作者である小林孝亘の言葉です。本作は、杜の中の開けた場所を描いた作品ですが、そこには彼の絵にとって重要な要素のひとつである「光」が射しこんでいる様子が表現されています。杜という「目に見える」、「形のあるもの」を題材としながら、じつは目には見えない「何か」を描いた作品なのです。
須永 有『影を描く』
須永有はダイナミックな構図と絵具の力強い筆致が特徴の作家です。その創作の原点には、幼い頃の思い出として、母親がしていたエプロンの黄色い色、そして、誰か大きな人が影をつくり、その影の中に自分が入りこんでしまったことによる強烈な「逆光体験」があると語っています。近年は、雪舟の《慧可断臂図》に描かれた洞窟を自作に引用し、絵筆で火を灯すシリーズにも挑戦するなど、画面の中での描画が、現実の世界をよりポジティブな世界へ導くようなパワーを感じる作品となっています。
田中 望『水底の森』
田中望は、神宮の杜が100年先を見越してつくられ現在に至っていることから、作家の想像力で時空を越え、遥か遠い未来の杜の姿を絵画化しようと本作を制作しました。この先の未来、地球全体の気温がますます高くなり、日本の大部分がふたたび海に沈んだら、永遠の杜はどのような姿になるのでしょうか。もしかしたら杜は暖かい海の底で生きる様々なものたちと、新たな共生関係を築いているかもしれません。
椿昇『Google Impressionism 20200630』
本作は、現代人の無垢で過剰な欲望の痕跡をリサーチすることをテーマとした作品で、2012年の霧島アートの森の個展「PH_PH」ではGoogle Earthを使ってアメリカの巨大農場を描画し、「Google Impressionism」としてシリーズ化に展開しました。本作品もその一部となります。時代の先を行くテクノロジーを作品に採り入れながら、既存の美術史を書きかえていくラディカルな作風が特徴の作家です。
流 麻二果『内外(うちと)』
美しい色の重なり、独特の色づかい、絵具が地球の重力に逆らわずにゆったりと流れているかのような造形は、絵画の快楽をストレートに伝えてくれます。重なった絵具は濁らず、鮮やかな色彩を見せているのも特徴のひとつです。明治神宮の杜がつくられていく中で、古来よりの森巌さを実現した内苑と、西洋化されていく明治の展開をみせた外苑がうまれたという二元性を、作家が近年探究している、「生死の境に現れるという光や色」となぞらえて描いた作品です。
ナマイザワクリス『原宿回顧』
「人が杜をつくり、杜が人をつくる」というテーマでつくられた作品です。ナマイザワクリスが大きく影響を受けた1990年代のファッション雑誌をモチーフに、画面いっぱい敷き詰めるように人々を描くことで「人の杜」を表現しています。たくさんの人々やカルチャーが集まる現代の原宿という街と、昔の人々がつくり上げた大きな人工林である神宮の杜とが、時代を越えて重なりあうように感じることができる作品です。
畑山 太志『森の意識』
風景の中にある不可視な存在への興味から、白色の筆触を緻密に画面に配置した作品で注目を集めた畑山太志。その後、畑山は、飛び交う光を思わせる色彩豊かなシリーズを展開してきました。本作では、杜の中に足を踏み入れた瞬間や、樹齢何十年の樹木を目の前にしたときに身体が感じる空気感や存在感を、繊細なテクスチャを用いて描いています。自然の持つ力や神々しさを作者の感性を通して表現した作品です。
濱口 健『ELECTRIC PRAYER』
構成力と描写力を武器にしている画家ですが、テーマが独特で、予想を超えた展開を見せるのが特徴です。日本人の心の故郷でもある神宮の杜からインスピレーションを受け、モチーフとして選んだのは、古来、日本人のエネルギー源として食されてきた稲穂、そして稲穂をついばむ稲雀でした。画面には電磁波のようなものが画面を横断し、不穏な気配が表れていますが、作家によれば「五穀豊穣祈願の図」とのこと。いかようにも解釈を許すポップで毒気のある表現となっています。
ひびのこづえ『杜が動く』
コスチューム・アーティストとして広告、演劇、ダンス、バレエ、映画、テレビなど、多岐にわたる活躍で知られるひびのこづえ。本作では、扇面のかたちをしたパネルが、革製のバックに収まった作品となりました。ひびのは言います、「人類がつくり出した文明や文化は、いつの間にかその根によって大地に戻っていく」と。こうしたひびのの想いは、杜を切り取り、手に持って移動することができる「バッグ」を模した作品へと結実したのです。
平井 武人 (H et H)『M3』
刻印されたモチーフは近年、平井武人が興味を示しているアルブレヒト・デューラーの《メランコリアⅠ》を解釈、再構成したものです。《メランコリアⅠ》は多様なモチーフで構成された世界が超絶的技巧で表現され、多義的な解釈を可能にしている名作です。その中で使用されているモチーフとフラクタル的イメージを重ね合わせた平井版《メランコリアⅠ》はまさに迷宮=フラクタルのような絵画であり、都心の小宇宙空間とも言うべき神宮の杜の一面をよく表しています。
平川 恒太『どこから来たか、どこへ行く-神宿る場所(磐座)宮之浦岳』
古来、日本人は山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきました。中でも巨石は磐座として全国で信仰されています。本作は平川恒太が登山中に出会った神が宿ると感じた場所に、人と自然をつなぐ中間者としてのキャラクターを描いています。さらに、俯瞰する視点で、明治神宮の杜を描きました。鳥獣戯画や山水画などの表現の中に自然崇拝が見られるように、現代社会では忘れがちな自然との距離感を思い出させます。
笛田 亜希『ルリビタキ(明治神宮)』
田亜希は生き物に対して深い愛情があり、それらを繊細に筆で描くことを得意としています。東京出身の笛田にとって、明治神宮は昔から親しみがある場所です。本作には神宮の杜と東京の高層ビル、そして1羽のルリビタキが描かれています。都会の空に神宮の杜から飛び立つ、青く輝くルリビタキが、美しいコントラストを生み出しています。
船井 美佐『境界』
船井美佐は、宝物殿手前に野外彫刻を展示しています。二次元と三次元の「境界」をテーマに制作している作家で、神社に奉納される神馬や絵馬をモチーフとして描きました。今回の制作に際し、船井は「神宮の杜は時空が層となっていて、過去から現在へ、想像の世界と現実の世界とを行き来することができる象徴的な場所である」と言います。100年前、未来を想像して杜をつくった人々に共感しながら、過去と現代の絵画様式がレイヤーとなった「祈り」としてのアートを制作しました。救済、まだ見ぬ未来への希望を本作へ込めています。
増田 将大『Population』
本作では時間をおいて複数回撮影した画像を、何層も重ねてできたイメージをシルクスクリーン技法で転写することで、時間の層を重ねたような作品は、観る者に不思議な感覚を与えます。見慣れた場所や見慣れたものであったとしても、手を伸ばしても掴めないような浮遊感すら漂います。今回は、静謐な神宮の杜の一瞬を捉え、新たなイメージを生み出しました。
町田久美『ひもろぎ』
伝統的な雲肌麻紙(和紙)に墨や胡粉、岩絵具で描くという日本画の技法で、大胆な余白を使いながら、墨線で対象を描く町田久美。今回の作品では、人の手によって造られた神宮の杜の緑は今では貴重な都心に残された緑で、それが残るも消えるも、また人の手にかかっていることを示唆しています。とりわけ線表現の強さと美しさは町田作品の特徴とも言えるものですが、ひと筆ではなく、いくつもの細いタッチの集積によって完璧にコントロールされ、その絵画空間を支配していることは特筆すべきことでしょう。
三沢 厚彦『杜の中の白虎 』
三沢厚彦は2000年より、動物の姿を等身大で彫った木彫「Animals」シリーズを制作している作家で、今回は、野外彫刻展「天空海闊」に等身大となる白虎の彫刻を展示しています。三沢は、彫刻のほかにドローイングも得意とし、本作は、精霊を宿している杜のオーラ—100の金色に輝くオーラ—を感じたことに着想を得て描かれました。野外彫刻展の白虎は杜の中に佇んでいますが、こちらの白虎は杜と戯れており、100年の杜と共生する白虎の姿が表現されています。
ミヤケマイ『蝙蝠』
本作には、神宮の杜に夕方になると現れる蝙蝠(コウモリ)が描かれています。蝙蝠は「虫偏に福」で昔からおめでたい生き物として日本やアジアで大切にされてきました。扇は末広がりでめでたく、そこに福が乗り、祝福ムードを盛り上げます。見る角度によって蝙蝠が墨に隠れているように見える様が、闇夜を飛ぶ蝙蝠を連想させます。素材は銀と墨で、夕涼みを連想させる涼やかな色と質感で描かれています。
森山 亜希『創られた杜』
神宮の杜をジオラマで創り、そのイメージが青色を基調とした油彩とアクリル絵具で描かれています。その制作過程は、人工林である神宮の杜を、森山亜希ならではの創造原理で表現し直したとも言えるでしょう。大都会の中で様々な命が息づく大きな杜、そこに馳せられた人びとの願いや祈りを想像させる、奥行きと不思議な魅力を持った作品となっています。
山口藍『みそひと草』
江戸時代の文化や風俗をもとに、琳派など様々な日本の美を継承しつつ、現代性を融合した新しい美人画を、オリジナルの支持体を用いて繊細かつしなやかな描線で表現する作家です。「三十一文字(みそひともじ)」とは短歌・和歌の別称。本作は、そうして三十一の言の葉が集まっている様子を、人の姿に見立てた作品です。扇の側面には和歌が書き込まれています。これは明治神宮のおみくじ「大御心」30首すべての中からお言葉を抜粋し、絡まる蔦や草のように表現されています。扇面作品の側面まで注意深くご覧ください。
山口 典子『森の生物』
神宮の杜に生息する動植物をコラージュして描かれた作品です。本来、床に生えているものが空に描かれていたり、予想外の生き物が隣接していたりと、作品を見れば見るほど不思議な世界が広がっているのがわかります。山口典子は、「大都会にある杜は人間ではなく動物たちの居場所のようだ」と感じ、神宮の杜に生息する動物たちに、「都会の真ん中でどうしているの?」と、アーティスティックな好奇心を持って、作品を通じて問いかけているのです。
山本 基『たゆたう庭』
泡のような小さなセルの一つひとつを亡くなった大切な人との些細な日常や思い出と見立て、渦巻状につなぎ合わせた作品です。彼の塩を使った巨大な空間を埋め尽くす作品は、故人に想いを馳せる行為の痕跡、さらに塩を使ったお清めのような気持ちでもあります。渦巻模様は、古来、強い生命力や再生、永遠などを意味するシンボルとして広く用いられてきたものです。塩のインスタレーションは世界のアートファンを魅了しています。彼が丁寧に塩で描く、人間の命の儚さと力強さは、新しい時代を迎えた私たちにとって、考えるチャンスを与えてくれています。