1910/06/05~2010/10/14

伯爵令嬢 立花文子

立花家史料館

明治・大正・昭和・平成、激変する世の中を「なんとかなるわよ」と明るく生きた女性がいます。その名は立花文子。彼女の伯爵令嬢時代を紹介します。

誕生 ~文子のルーツ~
立花文子は明治43年(1910)、伯爵立花家の次女として生まれました。父は立花家15代当主・鑑徳、そして母は田安徳川家9代当主達孝の娘・艶子。鑑徳の「あ」と艶子の「や」をとって「あやこ」と名付けられました。文子の生まれた立花家は、戦国武将を祖先とし、江戸時代には藩主として柳川を治めていた歴史ある家です。

父・鑑徳は、立花家14代当主・寛治の長男。母・艶子は田安徳川家9代当主・達孝の三女です。明治41年(1908)に二人は結婚しました。このとき鑑徳24歳、艶子17歳。

父方の祖父 立花寛治。立花家14代当主。伯爵。
寛治は、農学を学び、私財を投じて柳川に農事試験場を建設。筑後地方の農事振興に寄与しました。

父方の祖母 立花鍈子。旧姫路藩主・酒井忠惇の娘。
文子の父・鑑徳の実母は旧郡上藩主・青山幸哉の娘・鉤子。鍈子は継母にあたります。

母方の祖父 徳川達孝。田安徳川家9代当主。伯爵。
実兄は徳川宗家16代を継いだ、徳川家達です。

母方の祖母 徳川知子。旧薩摩藩主・島津忠義の娘。
文子の母・艶子の実母は徳川宗家15代・徳川慶喜の娘・鏡子。知子は継母にあたります。

少女時代
姉・惇子が夭折し、文子は伯爵立花家の跡取りとなります。伯爵令嬢でありながら、お茶やお花の稽古よりも体力作りに重きを置いた教育を受け、テニスやスキーを楽しみ、父と一緒に猟に出かける活発な娘に育ちました。

6歳の文子と祖母・鍈子、母・艶子。

7歳の文子。

柳川の立花邸にある西洋館にて。

15歳の文子、父・鑑徳と共に。

文子は12,3歳の頃から従兄にスキーを教わり、たびたびスキーを楽しみました。

猟好きの父について、山猟に出かけることもありました。冬は有明海へ鴨撃ちにも出かけました。

10歳の頃からテニスを始めた文子。夢中になって練習を重ねました。父・鑑徳は、そんな文子のために、20歳の誕生日にアンツーカーのテニスコートを、柳川の立花邸に造ったのでした。

昭和8年(1933)全日本女子テニス選手権大会のダブルス女子において、文子は林美喜子とのペアで優勝しました。

結婚
昭和10年(1935)、24歳になった文子は、元帥・島村速雄の次男・和雄と結婚。婿養子の和雄は帝室林野局で働く勤め人でした。

左端が和雄。実家の島村家は、元は高知の士族の家です。和雄は父・速雄と母・菅尾の間に、7人兄弟の次男として誕生しました。父の速雄は、日清・日露戦争で活躍した軍人です。和雄が生まれたとき速雄は、オランダで第2回万国平和会議に出席していました。そこで叔父により、平和の「和」と速雄の「雄」をとって「和雄」と名付けられました。

文子と和雄の結婚式は、昭和10年(1935)4月11日、飯田橋大神宮で挙げられました。媒酌人は文子の祖父の実兄にあたる、徳川宗家16代当主・徳川家達公爵夫妻。このとき和雄27歳、文子24歳でした。式後には東京會舘で披露宴を開き、大勢の人々に祝福されました。

東京での披露宴後、郷里柳川で披露宴が催されました。矢部川駅から立花邸まで、自家用のハドソンに乗って向かう8キロあまりの道沿いでは、たくさんの人々が出迎えました。立花家の先祖を祀った三柱神社で結婚の報告をした後、親戚を招待してのお披露目。翌日には立花邸のテニスコートで、地元の人々を招待しての披露宴。さらに翌日には、旧柳川藩の領内だった町村の招待で、盛大な歓迎を受けました。

柳川の京町郵便局長であった冨安道義が撮影した、柳川でのお披露目の様子。

柳川滞在中、沖端川河口付近にある立花家のプライベート干潟での潮干狩りを楽しみました。

結婚生活
当時、帝室林野局名古屋支局に勤務していた和雄との新生活は、名古屋で始まりました。その後、和雄の転勤に伴い北海道や木曽へと転居。そうして長男・宗鑑を筆頭に、3男3女に恵まれます。

結婚して最初の住まいは名古屋の借家。家の窓からは、春になると東白壁小学校の桜が見えました。

華族の多くの女性は、使用人のいる家に嫁ぎましたが、文子はお手伝いを置かず、掃除・洗濯・料理・買い物をすべて自分でこなしました。

実は和雄もスキーが得意。思う存分スキーをするために、北海道大学に進学したほどです。結婚後は木曽福島や、長野の三方ヶ峰でスキーを楽しみました。

昭和11年(1936)の夏、東京に住む和雄の弟妹たち、それに文子の従姉妹が遊びにきました。一行は、名古屋近郊で観光や海水浴を楽しんだ後福岡へ。博多湾や柳川の立花家農場へ出かけました。

昭和11年(1936)11月11日。1が並んだ記念に撮影。

昭和12年(1937)12月25日、長男の宗鑑が誕生。この頃には和雄の赴任先である、愛知県の新城に住んでいました。

昭和13年(1938)秋、和雄が札幌支局苫小牧出張所へ転勤になりました。苫小牧では官舎に住まい、冬になると雪下ろしと雪かきが日課となりました。さらに官舎では皆と一緒に畑を耕し、いろんな野菜を作りました。

柳川へ
終戦後、和雄は帝室林野局を退職し、文子と和雄それに4人の子ども達は、柳川へ帰郷します。伯爵立花家はその頃、民主化政策の農地改革と財産税で苦境に立たされていました。立花家16代として家督を相続した和雄には、相続税も重くのしかかってきました。たくさんの財産を失いましたが、残された土地と先祖から受け継いだ道具類を守るため、文子と和雄は、柳川の立花邸を利用して料亭旅館を開業します。この先の話はまた次の機会に。

「どんな時にも動揺しないこと」という父の教えを胸に、苦境も明るく乗り越えていく文子なのです。

tachibana history
提供: ストーリー

公益財団法人立花財団
立花家史料館

展示製作  内海高子(立花家史料館)

翻訳  立花万起子

提供: 全展示アイテム
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