作成: 立花家史料館
tachibana history
現在の松濤園(不詳)立花家史料館
伯爵令嬢 立花文子
明治・大正・昭和・平成、激変する世の中を「なんとかなるわよ」と明るく生きた女性がいます。その名は立花文子。彼女の伯爵令嬢時代をふりかえります。
立花文子(生後3ケ月)(1910-09-08) - 作者: 不詳立花家史料館
誕生 ~文子のルーツ~
立花文子は明治43年(1910)、伯爵立花家の次女として生まれました。父は立花家15代当主・鑑徳、そして母は田安徳川家9代当主達孝の娘・艶子。鑑徳の「あ」と艶子の「や」をとって「あやこ」と名付けられました。文子の生まれた立花家は、戦国武将を祖先とし、江戸時代には藩主として柳川を治めていた歴史ある家です。
立花鑑徳・徳川艶子結婚写真(1908-05-17) - 作者: 不詳立花家史料館
父・鑑徳は、立花家14代当主・寛治の長男。母・艶子は田安徳川家9代当主・達孝の三女です。明治41年(1908)に二人は結婚しました。このとき鑑徳24歳、艶子17歳。
立花寛治(1926-04-01) - 作者: 不詳立花家史料館
父方の祖父 立花寛治。立花家14代当主。伯爵。
寛治は、農学を学び、私財を投じて柳川に農事試験場を建設。筑後地方の農事振興に寄与しました。
立花鍈子(1940-07-01) - 作者: Takamuku立花家史料館
父方の祖母 立花鍈子。旧姫路藩主・酒井忠惇の娘。
文子の父・鑑徳の実母は旧郡上藩主・青山幸哉の娘・鉤子。鍈子は継母にあたります。
徳川達孝(1932-02-02) - 作者: 不詳立花家史料館
母方の祖父 徳川達孝。田安徳川家9代当主。伯爵。
実兄は徳川宗家16代を継いだ、徳川家達です。
徳川知子(1932-02-02) - 作者: 不詳立花家史料館
母方の祖母 徳川知子。旧薩摩藩主・島津忠義の娘。
文子の母・艶子の実母は徳川宗家15代・徳川慶喜の娘・鏡子。知子は継母にあたります。
立花文子、松濤園にて(1925-08-01) - 作者: 不詳立花家史料館
少女時代
姉・惇子が夭折し、文子は伯爵立花家の跡取りとなります。伯爵令嬢でありながら、お茶やお花の稽古よりも体力作りに重きを置いた教育を受け、テニスやスキーを楽しみ、父と一緒に猟に出かける活発な娘に育ちました。
スキーをする立花文子(1926-01-01) - 作者: 不詳立花家史料館
文子は12,3歳の頃から従兄にスキーを教わり、たびたびスキーを楽しみました。
猟姿の立花文子(1925-01-01) - 作者: 不詳立花家史料館
猟好きの父について、山猟に出かけることもありました。冬は有明海へ鴨撃ちにも出かけました。
テニスをする立花文子(1935) - 作者: 不詳立花家史料館
10歳の頃からテニスを始めた文子。夢中になって練習を重ねました。父・鑑徳は、そんな文子のために、20歳の誕生日にアンツーカーのテニスコートを、柳川の立花邸に造ったのでした。
優勝カップを持つ立花文子(1933) - 作者: 不詳立花家史料館
昭和8年(1933)全日本女子テニス選手権大会のダブルス女子において、文子は林美喜子とのペアで優勝しました。
立花文子_スキー・テニス(不詳)立花家史料館
立花和雄・文子結婚写真(1935-04-11) - 作者: A.MORIKAWA立花家史料館
結婚
昭和10年(1935)、24歳になった文子は、元帥・島村速雄の次男・和雄と結婚。婿養子の和雄は帝室林野局で働く勤め人でした。
島村家家族写真(不詳)立花家史料館
島村家の家族
左端が和雄。実家の島村家は、元は高知の士族の家です。和雄は父・速雄と母・菅尾の間に、7人兄弟の次男として誕生しました。父の速雄は、日清・日露戦争で活躍した軍人です。和雄が生まれたとき速雄は、オランダで第2回万国平和会議に出席していました。そこで叔父により、平和の「和」と速雄の「雄」をとって「和雄」と名付けられました。
立花和雄・文子結婚披露宴会場(1935-04-11) - 作者: 不詳立花家史料館
文子と和雄の結婚式は、昭和10年(1935)4月11日、飯田橋大神宮で挙げられました。媒酌人は文子の祖父の実兄にあたる、徳川宗家16代当主・徳川家達公爵夫妻。このとき和雄27歳、文子24歳でした。式後には東京會舘で披露宴を開き、大勢の人々に祝福されました。
立花和雄・文子結婚写真(1935-04-17) - 作者: 不詳立花家史料館
東京での披露宴後、郷里柳川で披露宴が催されました。矢部川駅から立花邸まで、自家用のハドソンに乗って向かう8キロあまりの道沿いでは、たくさんの人々が出迎えました。立花家の先祖を祀った三柱神社で結婚の報告をした後、親戚を招待してのお披露目。翌日には立花邸のテニスコートで、地元の人々を招待しての披露宴。さらに翌日には、旧柳川藩の領内だった町村の招待で、盛大な歓迎を受けました。
立花文子_柳川での結婚披露(不詳)立花家史料館
柳川での披露宴
柳川の京町郵便局長であった冨安道義が撮影した、柳川でのお披露目の様子。
有明海での潮干狩り(1935-04-19) - 作者: 不詳立花家史料館
柳川滞在中、沖端川河口付近にある立花家のプライベート干潟での潮干狩りを楽しみました。
立花和雄・文子(1936-03-20) - 作者: R.IWATA立花家史料館
結婚生活
当時、帝室林野局名古屋支局に勤務していた和雄との新生活は、名古屋で始まりました。その後、和雄の転勤に伴い北海道や木曽へと転居。そうして長男・宗鑑を筆頭に、3男3女に恵まれます。
立花文子_夫・和雄と共に(不詳)立花家史料館
東白壁小学校の桜(1936-04-15) - 作者: 不詳立花家史料館
結婚して最初の住まいは名古屋の借家。家の窓からは、春になると東白壁小学校の桜が見えました。
洗濯中の文子(1935) - 作者: 不詳立花家史料館
華族の多くの女性は、使用人のいる家に嫁ぎましたが、文子はお手伝いを置かず、掃除・洗濯・料理・買い物をすべて自分でこなしました。
スキーをする立花和雄・文子(1936-02-10) - 作者: 不詳立花家史料館
実は和雄もスキーが得意。思う存分スキーをするために、北海道大学に進学したほどです。結婚後は木曽福島や、長野の三方ヶ峰でスキーを楽しみました。
浜より海を眺める文子ら(1936-08-27) - 作者: 不詳立花家史料館
昭和11年(1936)の夏、東京に住む和雄の弟妹たち、それに文子の従姉妹が遊びにきました。一行は、名古屋近郊で観光や海水浴を楽しんだ後福岡へ。博多湾や柳川の立花家農場へ出かけました。
立花文子_島村姉弟との休日(不詳)立花家史料館
立花和雄・文子、昭和11年(1936-11-11) - 作者: 不詳立花家史料館
昭和11年(1936)11月11日。1が並んだ記念に撮影。
立花家家族写真、昭和13年(1938-05-05) - 作者: 不詳立花家史料館
昭和12年(1937)12月25日、長男の宗鑑が誕生。この頃には和雄の赴任先である、愛知県の新城に住んでいました。
畑に肥料を撒く立花文子(1939) - 作者: 不詳立花家史料館
昭和13年(1938)秋、和雄が札幌支局苫小牧出張所へ転勤になりました。苫小牧では官舎に住まい、冬になると雪下ろしと雪かきが日課となりました。さらに官舎では皆と一緒に畑を耕し、いろんな野菜を作りました。
立花家家族写真、昭和21年(1946-01-03) - 作者: Takamuku立花家史料館
柳川へ
終戦後、和雄は帝室林野局を退職し、文子と和雄それに4人の子ども達は、柳川へ帰郷します。伯爵立花家はその頃、民主化政策の農地改革と財産税で苦境に立たされていました。立花家16代として家督を相続した和雄には、相続税も重くのしかかってきました。たくさんの財産を失いましたが、残された土地と先祖から受け継いだ道具類を守るため、文子と和雄は、柳川の立花邸を利用して料亭旅館を開業します。
現在の松濤園(不詳)立花家史料館
現在、文子と和雄の志は受け継がれ、株式会社御花が運営する「柳川藩主立花邸 御花」は水郷柳河の観光の拠点として、公益財団法人立花財団が運営する「立花家史料館」は、大名文化を今に伝える歴史資料館として、国内はもちろん、海外からも多くの来訪者を迎えて賑わっています。
立花文子(不詳)立花家史料館
どんな時にも
「どんな時にも動揺しないこと」という父の教えを胸に、苦境も明るく乗り越えていく文子なのです。
公益財団法人立花財団
立花家史料館
展示製作 内海高子(立花家史料館)
翻訳 立花万起子
平成31年度 文化庁 地域の博物館を中核としたクラスター形成事業
国指定名勝「立花氏庭園」シリーズ1 「アヤコ in 立花伯爵邸」
国指定名勝「立花氏庭園」シリーズ3 「名勝『立花氏庭園』の歴史」