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第1章~第2章 立花宗茂と柳川の武士たち

ー立花宗成生誕450年記念特別展ー 於: 柳川古文書館

鉄皺革包月輪文最上胴具足(16th century, Momoyama period) - 作者: 不詳立花家史料館

第一章 1567年、宗茂誕生

戦国末の九州は豊後大友氏、肥前龍造寺氏、薩摩島津氏の各勢力がせめぎ合っていました。そのような状況のもと、1567年(永禄10年)、立花宗茂は誕生しました。宗茂は豊後国筧(現大分県豊後大野市)の大友氏の家臣吉弘家の館で生まれたとされますが、実父紹運(鎮種)が高橋家を継ぐと筑前岩屋城(現福岡県太宰府市)に移ります。紹運のもとで成長した宗茂は初陣を遂げ、その働きが戸次道雪(鑑連)の目にとまることになります。戸次道雪は、豊後国藤北鎧岳城(現大分県豊後大野市)を本拠とする、大友家家臣藤北戸次氏の出身です。藤北戸次氏はその親類や付近の氏族を家臣として組織し、大友家から配された大友直臣を与力として付属させていました。高橋紹運や戸次道雪は、主家大友家のためそれぞれの居城を守り、また軍事活動を行いますが、それには家臣や与力たちの協力が不可欠でした。

高橋紹運肖像/ 天叟寺(1644) - 作者: 画 不詳 賛 峻嶺玄逸立花家史料館

1.高橋紹運肖像
福厳寺所蔵の戸次道雪肖像(作品27)と似た表現がみられることから、道雪肖像を踏襲して紹運肖像が作成されたと考えられる。高橋紹運は吉弘鑑理の二男として生まれ、岩屋城高橋家を継ぎ、天正14年(1586年)島津の大軍に包囲され戦死した。

宋雲院肖像/ 天叟寺(19th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館

2.宋雲院肖像
宋雲院は高橋紹運の妻で、宗茂の実母である。天正14年(1586年)岩屋城落城の際、島津方に囚われた(のち北関で救出)。慶長5年(1600)の関ケ原合戦時には、人質として大阪城内にあり、西軍敗退の後、宗茂が奪還して、柳川まで連れ帰った。しかし、柳川開城時に再び人質となり、上洛した。その後、宋雲院は宗茂の柳川再封を見ることなく、慶長16年(1611)に江戸で没した。

立花宗茂肖像/ 福厳寺(1643) - 作者: 画 不詳 賛 貞畿立花家史料館

3.立花宗茂肖像
宗茂が没した翌年に描かれた肖像で、家臣十時三弥助惟保が寄進したものと箱書に記される。宗茂晩年の姿を伝えるものである。身に着けた袈裟と太刀拵に、定形化する以前の祇園守紋が描かれている。実際にこの形の紋が附された遺物は残っていないが、宗茂が晩年頃に、杏葉紋のほかに祇園守紋も使用した可能性を示唆する肖像画である。

大友別家吉弘田原高橋家譜下調二/ 個人蔵, 不詳, 1854, コレクション所蔵: 立花家史料館
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4.大友別家吉弘田原高橋家譜下調二

大友別家吉弘田原高橋家譜下調二/ 個人蔵, 不詳, 1854, コレクション所蔵: 立花家史料館
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4.大友別家吉弘田原高橋家譜下調二
標題のとおり大友庶流である吉弘家、田原家、高橋家の系図を収める。吉弘氏は大友能直の子泰広を祖とする。13代吉弘鑑理の二男鎮理とあるのが、のちの高橋紹運のことである。この系図では、紹運が高橋家を継いだのは元亀元年(1570)としている。吉弘氏の流れを汲む高橋家は、のちに三池藩立花氏となる。

高橋記 全/ 福岡県, 伊藤一蓑, 1819, コレクション所蔵: 立花家史料館
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5.高橋記 全

高橋記 全/ 福岡県, 伊藤一蓑, 1819, コレクション所蔵: 立花家史料館
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5.高橋記 全
高橋家の由来から、高橋統増の三池郡拝領までを記す。著者は三池藩士伊藤一蓑。展示史料は、文政2年(1819)に田原親諦が書写したもの。展示部分は、大友家に謀反をおこした高橋鑑種が豊前に移されたため、高橋家臣の懇願により吉弘鑑理二男鎮種(のちの紹運)が高橋家を継承した経緯が記されている。

立花家系図, 不詳, 19th century, Edo period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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6.立花家系図
冒頭には、藤原家~中原家および大友四郎家の系図を収める。その後に、清和源氏~大友家~立花家の系図を掲げる。本系図では、宗茂は永禄12年(1569)生年説を採り、豊後国玖珠郡筧村吉弘館で誕生したとされている。実父は高橋鎮種(紹運)、実母は斎藤鎮実の女宋雲院。

立斎公旧聞記 上/ 福岡県, 竹森次行, 1689, コレクション所蔵: 立花家史料館
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7.立斎公旧聞記 上

立斎公旧聞記 上/ 福岡県, 竹森次行, 1689, コレクション所蔵: 立花家史料館
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7.立斎公旧聞記 上
元禄2年(1689)、竹森次行の著とされる宗茂の伝記。展示部分は、宗茂の初陣を記す。天正12年(1584)、道雪・紹運勢と秋月氏が石坂で合戦となり、初陣の宗茂は敵将堀江備前を討ち取った。この働きを見た道雪が養子に所望したとしている。宗茂は天正9年に道雪の養子となっているので、天正12年では矛盾している。本史料にも天正12年と記されている部分に「天正九辛□年歟」と傍書されている。 

浅川聞書/ 福岡県, 浅川伝右衛門, 1643, コレクション所蔵: 立花家史料館
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8.浅川聞書

浅川聞書/ 福岡県, 浅川伝右衛門, 1643, コレクション所蔵: 立花家史料館
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8.浅川聞書
宗茂の近臣であった浅川伝右衛門によって記された聞書。さまざまな逸話が収められている。展示部分では、宗茂が道雪のもとへ養子入りする際、もし紹運と道雪が敵対した時には道雪の先陣に立って紹運を討てと、宗茂が紹運に諭されたという逸話を記す。また、宗茂が道雪に義絶された時には、この刀で自害せよと長光の剣を手渡されてという。この剣は今でも立花家に伝わっている。

高橋紹運覚書写/ 個人蔵, 高橋紹運, 1581-10-25, コレクション所蔵: 立花家史料館
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9.高橋紹運覚書写
統虎(宗茂)入嗣にあたって高橋紹運が道雪の家臣に宛てた条書。著名な史料であるが原本は確認されず、写のみが伝わる。本史料も写であるが、他の写より当時の雰囲気をよく伝えており、あるいは原本の敷き写しではないかと考えられる。宛所から戸次家中の人名がわかるが、多くの戸次姓家臣の他に譜代家臣の由布氏や十時氏ら、さらには与力であった小野和泉守(鎮幸)や小野喜八(成幸)も含まれている。

世戸口政良書状/ 個人蔵, 世戸口政良, 1677, コレクション所蔵: 立花家史料館
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10.世戸口政良書状
延宝5年(1677)に世戸口政良が太田勘兵衛に対し出した書状。宗茂が道雪の養子となった際、高橋家から宗茂に付けられたのは世戸口十兵衛と太田久作(成方)の二名のみであったとしている。後年、宗茂からも両家は今後も「兄弟同然之心入」が肝要であるとの言葉をかけられたようで、この書状で今後とも両家が協力していくことを確認している。

鉄皺革包月輪文最上胴具足(16th century, Momoyama period) - 作者: 不詳立花家史料館

11.鉄皺革包月輪文最上胴具足
宗茂が朝鮮出陣の折に着用したことが江戸時代の御道具帳に記されている。永禄から天正年間前半(1560~80)頃の制作と考えられるが、当初のものは、胴と兜のみで、他は後補である。胴に大きく描かれているのは、兜の脇立てと同じ意匠の輪貫文(立花家の御道具帳では月輪と記されている)であるが、これを蛇の目紋とみれば、宗茂と親交のあったといわれる加藤清正との関わりも想像され、興味深い。胴回りは大振りで、地鉄は厚く、重量が草摺(胴の下部から垂らして大腿部を防御する部品)とも12キログラムと非常に重い。宗茂は、当時としてはずいぶん体格のよい人物であったことが想像される。

安東家譜之控巻一/ 柳川市, 不詳, 1783, コレクション所蔵: 立花家史料館
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12.安東家譜之控巻一
安東氏は伊豆国安東荘の荘官の末裔と伝え、のち大友氏に仕え、豊後国井田郷(現大分県豊後大野市のうち)に下ったという。連末が大友義親(義長)の命により戸次親宣(道雪祖父)の後見となって家老を務め、その子家忠も戸次親家・道雪のもとで家老を務めた。

略系下書/ 個人蔵, 不詳, 1797, コレクション所蔵: 立花家史料館
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13.略系下書
安東氏の系図。寛政9年(1797)に藩へ提出した系図の下書き。安東家史料の系図とは異同があるが、三宗(満宗)を直接の祖とする点は共通している。当家は、三宗の子主税助連信に始まる。連信は戸次鑑連(道雪)に仕え、立花移城にも従った。近世になると、当主は善右衛門か市之允を名乗ることが多いようである。

略系下書/ 個人蔵, 不詳, 1797, コレクション所蔵: 立花家史料館
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13.略系下書

戸次鑑連感状/ 個人蔵, 戸次鑑連, 15th-16th century, Sengoku period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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14.戸次鑑連感状
安東又次郎(連信の弟連久)に対し、無足として多年の心労を賞し豊前国津隈(現福岡県行橋市のうち)の内12町を預置く。ただしこれは暫定的な措置であったようで、豊後国内で闕所地があり次第、知行を付与するとしている。

太神朝臣由布院氏系図/ 個人蔵, 不詳, 17th-19th century, Edo period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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15.太神朝臣油布院氏系図
蒲池山由布家に伝わる系図。由布氏の祖先吉野惟基から書き起こす。その後裔惟通が、由布院山に城郭を築き、由布院(油布院)氏に改めたという。これが由布氏の直接の祖先とされる。その後、由布家は家督争いにより、正嫡家と庶嫡家の二系統に分かれた。両系統が相争ったためその勢力は衰微し、結局正嫡家と庶嫡家ともに藤北戸次家の家臣となった。

由布氏之家系/ 福岡県, 不詳, 17th-19th century, Edo period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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16.由布氏之家系
後に家老家となる由布安芸家の系図。安芸家は庶嫡家の系統に属すが、この系図には正嫡家のことは記されていない。もともとは大友家直臣であったが、惟巍の時に道雪と好を通じその武役を務めたとする。その子惟信(雪下)も道雪・宗茂二代に仕え、生涯30数度の戦場で一度の負けもなかったという。

由布氏之家系/ 福岡県, 不詳, 17th-19th century, Edo period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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16.由布氏之家系

太神姓十時氏略系/ 個人蔵, 不詳, 17th-19th century, Edo period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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17.太神姓十時氏略系
近世に家老を務める十時太左衛門家に伝わった系図。十時氏は豊後の有力氏族である大神氏の末裔を称し、もともと豊後国入倉荘(現大分県入蔵)に住して入倉氏と名乗っていたとされる。やがて、大友氏に従い、十時荘(現豊後大野市大野町十時)に居住するようになり、十時を氏としたという。十時の地は戸次家の持ち城である鎧岳城の至近であり、やがて十時氏は戸次家に仕えることになったようである。

十時氏略系図/ 福岡県, 不詳, 17th-19th century, Edo period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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18.十時氏略系図
十時氏は戦国期から多くの家を分出し、その多くが戸次家(のちの立花家)に仕えた。十時氏の嫡流は惟信-惟家-惟安-惟忠の流れである。戸次道雪が戸次家の持ち城である鎧岳城から立花山城に移る際、惟忠の長子惟直は鎧岳城に留まり、次子連秀が立花山城に従った。その他、摂津家では連貞が立花城に従った。

藤原姓小野氏系図/ 福岡県, 不詳, 17th-19th century, Edo period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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19.藤原姓小野氏系図

藤原姓小野氏系図/ 福岡県, 不詳, 17th-19th century, Edo period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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19.藤原姓小野氏系図
小野氏は藤原氏の末裔を称し、祐家より小野氏を名乗った。その後、佐賀が豊後に下って大友氏の寄食となり、以降代々が大友氏に仕えた。小野氏がいつから藤北戸次氏の与力になったのかは不明であるが、信幸は戸次鑑連(道雪)と軍事行動をともにしていることが確認される。

藤原姓小野氏系図/ 福岡県, 不詳, 17th-19th century, Edo period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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19.藤原姓小野氏系図

戸次鑑連感状/ 福岡県, 戸次鑑連, 1554, コレクション所蔵: 立花家史料館
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20.戸次鑑連感状
天文23年(1554)、菊池義武を討った木崎の戦いでの小野信幸の忠義を賞する。この中で、鑑連(道雪)は信幸の働きを大友氏に報告すると述べているが、これは信幸が大友氏直臣であり、与力として鑑連の配下に付属していたためである。宛所の高さや脇付を伴っている点など、同時期に発給された鑑連の譜代家臣宛の感状よりも厚礼なものとなっている。

戸次鑑連知行預ヶ状/ 福岡県, 戸次鑑連, 1558-03-16, コレクション所蔵: 立花家史料館
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21.戸次鑑連知行預ヶ状
弘治3年(1557)、鑑連(道雪)らが大友氏に敵対した秋月文種を攻めた際、同陣していた小野信幸(大蔵丞)は戦死した。この忠義を鑑連は大友氏に「言上」しているので、その子長幸(乙寿丸)に対し大友氏から褒美が下されるであろうとしている。鑑連としては新地野津手村の内三町分を預進している。

大友義鎮知行預ヶ状/ 福岡県, 大友義鎮, 1559, コレクション所蔵: 立花家史料館
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22.大友義鎮知行預ヶ状
鑑連(道雪)の言上を受けて、大友義鎮から小野長幸に対し父戦死の褒美として筑前国において15町分が預け置かれた。戦功を大名大友氏に報告し、確実に大友氏からの恩賞給付につなげることが、小野氏のような与力の信頼を深めていくことにつながるのである。

大友宗麟安堵状/ 福岡県, 大友宗麟, 1567, コレクション所蔵: 立花家史料館
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23.大友宗麟安堵状
永禄10年(1567)、戸次鑑連(道雪)ら大友勢は反旗を翻した秋月種実を攻めた。大友勢は秋月の居城まで迫ったが、休松の戦いで大打撃を蒙った。この休松の戦いでの父小野弾正忠鑑幸の戦死を称え、大友宗麟が弾介鎮幸に跡目を安堵したものである。このように、与力の家督相続については、大名大友氏が権限を有していたようである。

戸次道雪名字状/ 福岡県, 戸次道雪, 16th-17th century, Momoyama period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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24.戸次道雪名字状
戸次道雪が小野弾介(鎮幸)に対し和泉守へ改名について大友家に披露することを伝えたもの。与力については、官途の申請も大友家に取り次いでいたようである。

戸次之系図, 不詳, 19th-20th century, Meiji-Taisho period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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25.戸次之系図
戸次氏は大友家二代親秀の二男重秀に始まる。もともと戸次荘(現大分市)を領していたが、途中から大野郡藤北(現豊後大野市)の鎧岳城に移った。当初は大友家に対しても一定の独自性を保っていたようであるが、徐々に大友氏の家臣に組み込まれていった。親宣の時、片賀瀬戸次家を分出するが、この家は近世に至ると有力家臣を輩出することになる。

大友義鎮継目安堵状, 大友義鎮, 1550, コレクション所蔵: 立花家史料館
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26.大友義鎮継目安堵状【重要文化財】
大友義鎮(のちの宗麟)の花押型から天文19年(1550)の文書と推定される。男子のなかった戸次鑑連(道雪)は甥の千寿(のちの鎮連)を養子に迎え、藤北戸次家の家督を相続させた。この文書は、主家大友氏がこの相続を承認したものである。しかし、鑑連はいまだ壮年であり、実権は鑑連が持ったままであったと考えられる。

立花山絵図(19th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館

第二章 立花山城へ

元亀2年(1571)、戸次道雪は城督に任ぜられて、大友家の筑前支配の重要拠点である立花山城(現福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)に入城します。この時、道雪はすでに家督を甥の鎮連に譲っていたため、家臣の嫡流は鎧岳城に残ることになり、引き連れてきた家臣は隠居していたものや二男、三男たちが中心でした。これに、立花山城付近を本拠としていた薦野氏や米多比氏が与力として支配下に加わります。 道雪は天正3年(1575)、立花山城督の地位を女誾千代に譲ります。この時誾千代はまだ七歳であったので、政治的・軍事的実権は道雪が持ったままだったと考えられます。天正9年、宗茂はこの誾千代の婿に迎えられて道雪の養子となり、立花山城へ移ります。主家大友家の衰退が色濃くなるなかでなされたこの養子縁組は、立花山城督戸次氏と岩屋城督高橋氏との軍事同盟的な意味合いがあったと考えられます。 立花山城に移った宗茂は、養父道雪とともに反大友勢力の鎮圧にあたります。また、養子入りの翌年には、養父道雪が果たせなかった立花姓を名乗るようになります。 天正13年(1585)、筑後遠征中であった養父道雪は北野(現福岡県久留米市)で陣没します。翌14年には、九州平定を企図して大軍を擁した島津勢が岩屋城を包囲し、実父紹運は戦死します。二人の父を失った宗茂は、立花山城を単独で背負っていかなければならなくなったのです。

戸次道雪肖像/ 福厳寺(1624) - 作者: 画 不詳 賛 大機立花家史料館

27.戸次道雪肖像
永正10年(1513)、戸次道雪は戸次親家と由布惟常女の間に生まれた。父の死によって、大永6年(1526)、14歳で家督を相続した。天文19年(1550)ころに家督を甥の鎮連に譲るが、むしろこれ以降軍事的・政治的活躍がめざましく、大友氏の重臣加判衆にも列せられた。元亀2年(1571)、城督に任じられて、立花山城に入城する。

誾千代肖像/ 良清寺(17th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館

28.誾千代肖像(写真パネル展示)
永禄12年(1569)8月13日、山本郡問本城(現久留米市)で誕生したとされる。ただし、生年および生誕地ともに異説がある。父は戸次道雪、母は長巌城主問註所鑑豊の娘仁志姫。「良清大姉伝記」によれば「吟千代姫美容儀英ニシテ性利能筆ナリ」と記され、才色兼備であったとされる。天正3年(1575)、父道雪より譲りを受け、数え7才で立花山城督になった。

立花山絵図(19th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館

29.立花山絵図【重要文化財】
立花山を北側から描いた構図となっている。山の頂上には本城跡、松尾城跡、白嶽城跡が記入されており、立花山城はこれらを総合した城郭であった。その他、麓まで古跡が記入されている。眼下に博多のまちと博多湾を望む立花山城は、大友氏の筑前支配の軍事的拠点であった。立花山は立花氏およびその家臣の故地であるため、江戸時代になってこのような図が描かれたのであろう。

脇指 無銘(雷切丸)(13th-16th century, Kamakura~Muromachi period) - 作者: 不詳立花家史料館

30.脇指 無銘(雷切丸)
道雪は若年のころ落雷により、足が不自由となり、輿に乗って軍陣を指揮したという。落雷があった時、雷を切ったとされるのがこの刀と伝わる。もともとは千鳥という刀であったが、これにより雷切と名付け愛用した。

金箔押桃形兜(16th century, Momoyama period) - 作者: 不詳立花家史料館

31.金箔押桃形兜
立花家に伝わる金箔押桃形兜は、同家では「金甲」と言われてきた。戦場で一隊全員揃って着用させたものと思われ、安永7年(1778)の御道具帳には「金冑」として318の存在が記録されている。現在は239頭が残り、制作年代は桃山時代から江戸時代前期にわたっており(図版掲載写真は、桃山時代のもの)、段階的に作られていたと考えられる。戸次道雪譲状写にも「一、同甲三十 内十一オハリ甲 十一桃なり…(略)」の、桃なり、つまり桃形兜の記載がみられる。後立の筒に挿入した立物は残っていないが、同御道具帳によると「同後立一本しなひ 下黒下しぼり 三百拾八」と記載されている。 九州地方には、桃形兜は多数残っており、安土桃山時代から江戸時代前期にかけてかなり普及していたと思われ、いち早く取り入れた南蛮文化に伴う西洋甲冑の影響をうかがわせる。それら諸大名家の中で唯一、比較的初期の桃形兜を大量に伝え、統一された武装の様相を髣髴させるこれらの桃形兜は甲冑史上特筆すべき貴重な資料である。

戸次道雪譲状写, 戸次道雪, 1575-05-28, コレクション所蔵: 立花家史料館
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32.戸次道雪譲状写【重要文化財】
天正3年(1575)、道雪は譲状を作成し、娘誾千代に立花山城督とそれに付随する一切のものを譲り渡した。道雪も60歳を超えており、立花山城督の後継問題が浮上したようである。正文は現存せず、写の形で伝わる。冒頭には、大友義統と宗麟の袖判がすえられていたようである。城督と城料の他、名刀や武具、軍忠状、兵站物資など非常に細々としたものまで書き上げられている。

略系/ 個人蔵, 不詳, 16th-19th century, Edo period, コレクション所蔵: 立花家史料館
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34.略系
元亀2年(1571)の道雪の立花入城に際し、安東氏では長男連実・二男連善が藤北戸次家の家督を継いでいた鎮連に仕え、三男連忠が父家忠とともに立花山入城に従った。二男連善は、のちに立花山城に召し出され、家老を務めている。

戸次鑑連知行預ヶ状/ 福岡県, 戸次鑑連, 1571-09-13, コレクション所蔵: 立花家史料館
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35.戸次鑑連知行預ヶ状
元亀2年(1571)、鑑連(道雪)は立花山入城に伴って家臣に知行預ヶ状を発給した。これは直臣の由布源五兵衛尉(惟信・雪下)に宛てたもの。惟延は庶嫡家由布惟巍の「次子」とされ、やはり嫡流は鎧岳城に残留したのであろう。

戸次鑑連知行預ヶ状/ 福岡県, 戸次鑑連, 1571-09-13, コレクション所蔵: 立花家史料館
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36.戸次鑑連知行預ヶ状
元亀2年(1571)、道雪の立花山入城に伴う知行預ヶ状。直臣由布氏と与力小野氏では違いが見られる。小野弾介(鎮幸)宛は知行に「御」が付けられ、宛所も高い位置に配されている。このことより、小野氏がいまだ与力の立場にあったことが窺える。

戸次家家老連署知行坪付/ 福岡県, 由布家続、堀玉隠、安東家栄、森下釣雲、安東家忠, 1571, コレクション所蔵: 立花家史料館
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37.戸次家家老連署知行坪付
由布源五兵衛(惟延、雪下)宛の知行預ヶ状に対応する坪付。発給者の、由布家続、堀玉隠、安東家栄、森下釣雲、安東家忠が立花山入城当時の家老と考えられる。ちなみに、同日発給の小野鎮幸宛の知行坪付には、由布惟延も署名しており、やはり家老であったと考えられる。本史料に署名がないのは自身宛ての文書であるからだろう。

立花山御家老書上/ 個人蔵, 不詳, 1582, コレクション所蔵: 立花家史料館
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38.立花山御家老書上
元亀2年(1571)に藤北の戸次鎮連に付属した家老、同年道雪が立花山に入城した時の家老、天正10年(1582)段階の家老を書き上げる。この史料によれば、天正元年(1573)に十時連秀が家老に加わり、同10年には小野鎮幸(史料では「鎮行」)が家老に列せられている。

戸次道雪安堵状/ 個人蔵, 戸次道雪, 1578, コレクション所蔵: 立花家史料館
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39.戸次道雪安堵状
立花山入城当初、家老を務めた堀越後入道東雲の跡式を仙千世(仙千代)秀に相続させてもの。東雲は家老を務めるとともに「博多押」として博多(現福岡県福岡市)に居住したという。道雪の立花山入城にともなって出来た新たな家臣団も、道雪のもとで代を重ねつつあった。

立花統虎名字状/ 個人蔵, 立花統虎, 16th century, コレクション所蔵: 立花家史料館
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40.立花統虎名字状
堀仙千代が八郎へ改名することを許可したもの。堀仙千代は若年で家督を相続したと考えられ、すぐに家老に就いていないようである。天正14年(1586)の史料には、堀八郎秀の名で家老として署名の列に加わっている。

豊前覚書, 不詳, 1615, コレクション所蔵: 立花家史料館
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41.豊前覚書【重要文化財】
統虎(宗茂)は入嗣の翌年である天正10年(1582)に立花姓を名乗る。同年11月18日に立花山城で催された「御旗・御名字」の御祝が、立花改姓の祝宴と考えられる。この祝宴の参列者には、一門・譜代のほかに糟屋郡衆である米多比氏、薦野氏も含まれている。

戸次統虎・道雪連署感状/ 個人蔵, 戸次統虎、戸次道雪, 1581, コレクション所蔵: 立花家史料館
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42.戸次統虎・道雪連署感状
天正9年(1581)ヵ、潤野原合戦における米多比鎮久の勲功を賞す。統虎(宗茂)入嗣後、はじめて確認できる軍事行動である。道雪との連署であるが、統虎が感状発給の主体となっている。

戸次統虎・道雪連署役職預ヶ状/ 福岡県, 戸次統虎、戸次道雪, 1581, コレクション所蔵: 立花家史料館
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43.戸次統虎・道雪連署役職預ヶ状
由布美作入道雪下に博多津東分役職を預進したもの。雪下はすでに博多津東分の裁判を担っていたが、この段階では役職が宛行の対象になっており、豊後大友氏を介在せず、立花山城督の管理下に入ったと解釈できる。

大友義統書状/ 福岡県, 大友義統, 1585, コレクション所蔵: 立花家史料館
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44.大友義統書状
天正12年(1584)から、道雪は紹運とともに筑後に遠征した。数々の戦果をあげるものの、柳川城を攻略できず、高良山に陣替えし、越年する。その後、北野に陣替えしたが、長陣がたたったのか、病を得、9月11日に陣没した。これは、大友義統が由布雪下(美作入道)に対し、以後は統虎(宗茂)に対し、忠義を尽くすよう督した書状である。

大友義統書状/ 個人蔵, 大友義統, 1585, コレクション所蔵: 立花家史料館
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45.大友義統書状
天正13年(1585)の道雪陣没をうけて、大友義統は引き続き統虎(宗茂)へ仕えるように戸次(立花)家の家臣と与力に宛てて書状を発している。これは与力の米多比鎮久に宛てた書状である。戸次(立花)家の家臣由布雪下に対しては、統虎へ「貞心を励むべし」(忠義を尽くせ)とし、与力米多比鎮久に対しては統虎と「申し談ぜられ」(相談されよ)としており、両者の立場の違いが文面にあらわれている。

立花統虎知行預ヶ状/ 個人蔵, 立花統虎, 1586, コレクション所蔵: 立花家史料館
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46.立花統虎知行預ヶ状
近年働きのあった拾時(十時)摂津守連貞に対し、板付村の役職と当知行分に三町を加え都合10町を預進する。統虎単独で発給されているので、道雪没後のものと推定される。

立花氏家老連署知行坪付写/ 個人蔵, 由布雪下、十時連秀、堀秀、安東連直、由布惟時、安東雪貢、小野宗珊, 1586, コレクション所蔵: 立花家史料館
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47.立花氏家老連署知行坪付写
天正14年(1586)6月17日付で、堀惣右衛門入道へ与えた知行坪付の写し。差出に並ぶ家老は、由布雪下、十時連秀、堀秀、安東連直、由布惟時、安東雪貢(連忠)、小野宗珊(鎮幸)である。これが道雪没後の家老の面々である。代替わりを別にすると、十時連秀と小野宗珊の名が注目される。十時連秀は、天正期に豊後より道雪に召し出され、天正年間後半から家老に列せられているようである。また、小野宗珊(鎮幸)は、大友家直臣から道雪の家臣となり、この段階では家老にまで列せられている。

大友義統感状/ 個人蔵, 大友義統, 1586, コレクション所蔵: 立花家史料館
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48.大友義統感状
大友義統が吉田右京亮連正に対し、道雪のもとでの在陣の軍労をたたえ、統虎(宗茂)への変わらない忠義を求めたもの。吉田氏はもともと京にいたとされ、天文16年(1547)豊後に下ったという。連正の時、道雪に仕え、立花山移城にも従った。

立花統虎知行預ヶ状/ 個人蔵, 立花統虎, 1586, コレクション所蔵: 立花家史料館
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49.立花統虎知行預ヶ状
天正14年(1586)、統虎(宗茂)の実父高橋紹運が拠る岩屋城は、島津勢によって包囲された。この際、立花山城から吉田右京連正らを岩屋城へ援兵として差し向けたが、戦死してしまう。この連正の忠義をたたえ、子の靏寿(成兼)に対し知行三町分を預進したものである。統虎は自身の出身である岩屋城への援兵をためらっていたとされるが、右京連正が率先して名乗り出たといわれる。

大友宗麟感状/ 個人蔵, 大友宗麟, 16th century, コレクション所蔵: 立花家史料館
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50.大友宗麟感状
大友宗麟が米多比五郎次郎に対し、祖父以来両代の戦死を賞し、鎮久の名を与えたもの。鎮久は宗麟の実名義鎮にちなむものである。米多比家の祖は熊谷直実とされ、その子孫が筑前国糟屋郡米多比(現福岡県古賀市米多比)を領して、米多比を氏としたという。一時的な離反はあったようであるが、鎮久の祖父越中守、父鎮家は大友氏に与して戦死した。米多比一族の中には大内勢に与したものもあった。

戸次道雪感状/ 個人蔵, 戸次道雪, 1579, コレクション所蔵: 立花家史料館
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51.戸次道雪感状
天正7年(1579)原田氏と戦った生松原合戦における鎮久の勲功を賞したもの。文中の同名弾介は別系米多比氏と考えられ、その一族は大内氏や宗像氏に与同するものが多かったが、鎮久とともに行動していることが確認できる。道雪も恩賞を約束しているが、彼らの働きは豊後大友氏に言上されることになっていることから、この段階で米多比氏は与力であったと言える。

薦野家譜 二/ 福岡県, 立花増能, 1705, コレクション所蔵: 立花家史料館
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52.薦野家譜 二
薦野家譜は宝永2年(1705)に福岡藩に仕えた立花増能によって編さんされた。薦野氏も米多比氏と同様に熊谷氏の後裔を称し、薦野(現古賀市薦野)の地を根拠とする小領主であった。道雪の立花入城を機に与力としてその軍事的指揮下に入った。家譜によれば、糟屋郡衆の薦野・米多比一族は道雪の立花山入城を非常に歓迎したようである。

高橋紹運書状, 高橋紹運, 1584, コレクション所蔵: 立花家史料館
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53.高橋紹運書状【重要文化財】
天正12年(1584)ヵ、高橋紹運が黒木城攻めの様子を薦野増時に伝えている。紹運は道雪ともに筑後遠征中であったが、増時は立花山城の留守を預かっていたようである。紹運は道雪について「いつもの大いなる目ヲはられ…」と記述しており、福厳寺所蔵の道雪肖像(作品27)が実際の道雪の容貌に近いものであったことをうかがわせる。

提供: ストーリー

主催 立花宗成生誕450年記念実行委員会

開催館 
柳川古文書館

提供: 全展示アイテム
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