In Chikugo Province, the southern part of Fukuoka, the existence of many ancient documents is confirmed. The mission of the library is to collect, organize and preserve these valuable materials, and make them available to the public.
特筆すべき収蔵史料
初代藩主立花宗茂および柳川藩主立花家歴代に関する古文書(国重要文化財)、キリシタン大名大友宗麟および大友家歴代に関する古文書(国重要文化財)、鎌倉時代~南北朝時代(12世紀~15世紀)の鷹尾神社に関する古文書(国重要文化財)、立花家を支えた柳川藩士家に伝来した甲冑・刀剣・古文書類、中国から来日した著名な儒学者・朱舜水の書簡や筆語など。
豊臣秀吉判物(1586) - 作者: 豊臣秀吉立花家史料館
豊臣秀吉判物
【重要文化財】
九州平定を図って北上する島津勢によって宗茂が守る立花山城は包囲され、開城を要求される。宗茂は、立花山城が「名字」の地であることや、毛利勢の援軍が間近であること、秀吉からの指示で多量の鉄砲が搬入されていることを告げてこれを拒否した。それを受けて島津勢が囲みを解いて撤兵を開始したところ、宗茂は一挙に島津方星野氏の守る高鳥居城を激戦の末落城させた。秀吉はこの戦いでの働きぶりを聞き、宗茂を「九州之一物」と賞した。この文書は秀吉から安国寺恵瓊、黒田孝高(如水)、宮木堅甫へ宛てたもので、元来黒田家に伝わったものであるが、寛文年間(一六六一~七三)に立花家が黒田家に所望して蔵するに至った。
豊臣秀吉朱印状(1587) - 作者: 豊臣秀吉立花家史料館
豊臣秀吉朱印状【重要文化財】
九州平定を終えた秀吉は、天正一五年(一五八七)六月二五日付で宗茂に、筑後国の山門、三瀦、下妻、三池四郡を与えた。但し、この内三池郡を、弟であり実家高橋家を継いだ高橋直次に、三瀦郡の内一五〇町を三池鎮実に引き渡すこととされた。この後、宗茂は立花山城から柳川へと城地を移すことになる。秀吉から直接宛行状を与えられることは、大友家家臣という立場を脱し、独立した大名となったことを意味している。
豊臣秀吉知行宛行状(1595) - 作者: 豊臣秀吉立花家史料館
豊臣秀吉知行宛行状【重要文化財】
文禄四年(一五九五)に宗茂の領国でも太閤検地が行われる。これを受けて発給されたのが、この宛行状であり、これによって領国の石高は、一三万二二〇〇石と確定する。太閤検地によって石高制が導入されることになり、以降豊臣政権からの負担要求はこの石高をもとに算定されることになる。
豊臣秀吉朱印状(1593) - 作者: 豊臣秀吉立花家史料館
豊臣秀吉朱印状【重要文化財】
天正二〇年(=文禄元年、一五九二)、豊臣秀吉は明征服を目的として朝鮮に軍勢を派兵し、宗茂も同年四月ころに渡海したようである。文禄二年(一五九三)一月二七日、明・朝鮮連合軍と日本軍は碧蹄館(ソウル北西)で激突、先鋒を務めた宗茂は日本軍を勝利に導き、日本中にその武名をとどろかせた。本状では、秀吉が碧蹄館の戦いでの宗茂の働きを称えている。しかし、この戦いで立花勢は五〇〇名近くの家臣を失った。
日置流弓條々(1602) - 作者: 吉田茂武立花家史料館
日置流弓條々【重要文化財】
宗茂は弓の免許を、天正一八年(一五九〇)に尾村甚左衛門尉連続から受けているが、慶長六年(一六〇一)には中江新八から、そしてその翌年には吉田茂武から日置流弓術の免許を得ている。この時三六歳、関ヶ原合戦の後、改易されて浪牢の身であった頃である。
立花尚政書状(1601) - 作者: 立花尚政立花家史料館
立花尚政書状【重要文化財】
慶長六年(一六〇一)の立花(薦野)賢賀宛の書状。立花家旧臣の多くは肥後の加藤家預かりとなっていたが、賢賀は、柳川開城ののち黒田家を頼って筑前にあった。これを理由に、旧臣の間では賢賀への不信の念が広がっていたようであるが、宗茂はその立場に理解を示している。ほどなくして、賢賀は黒田家に仕えることとなった。
徳川家光領地判物(1634) - 作者: 徳川家光立花家史料館
徳川家光領地宛行状【重要文化財】
江戸幕府の将軍が各大名に対し領地の支配権を承認する内容の文書を領知判物という。判物とは、花押が据えられた文書のことで、ここには三代将軍家光の花押が据えられ、柳川侍従つまり宗茂に宛てて藩領一〇万九六四七石を支配することを認めたものである。ちなみに、十万石以下の大名の場合、花押は据えられず、朱印が押された領知朱印状が出される。この領知判物が大名にとって特別に大事な文書であったことはいうまでもない。
江戸幕府老中奉書(1642) - 作者: 阿部重次、阿部忠秋、松平信綱立花家史料館
江戸幕府老中奉書【重要文化財】
寛永一九年(一六四二)、享年七六で宗茂が亡くなった際、江戸幕府老中から忠茂に出された奉書。長年側近くに仕えた宗茂が亡くなったことを、将軍家光は「不便」に感じ、このことを伝えるために、わざわざこの奉書が出されている。
嶋原御陣図/ 福岡県(17th-18th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
嶋原御陣図【重要文化財】(所蔵:福岡県)
原城を中心に、天草・島原の乱を描いた絵図。ここには、九州諸大名が原城包囲に入った寛永一五年(一六三八)、二月上旬から、総攻撃の過程、さらには落城後の状況までも描き込まれている。数ある原城攻めの絵図の中でも、記載の詳細さと正確さは第一級であり、江戸時代からその評判が高かったことが窺われる。絵図中、立花勢は、細川勢とともに三ノ丸下に陣取っている様子がみられる。
鉄黒漆塗碁石頭伊予札縹糸素懸威二枚胴具足/ 柳川古文書館(17th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
黒鉄漆塗碁石頭伊予札縹糸素懸威二枚胴具足(所蔵:柳川古文書館)
竹柄に並び軍配の前立に、縹糸毛引威の日根野形 がつく鉄黒漆塗頭形兜とともに伝来したが、兜と前立は現存するも別の所蔵となっている。碁石頭伊予札を縹糸素懸威とし、草摺裾板に熊毛をうえた二枚胴、小篠籠手、板佩楯の具足は、臑当が欠ける。ともに伝来した金白檀塗色々威壺袖(作品73)とは、配色の趣向が異なる質実なつくりで、制作年代は少し下った江戸時代初期とみられる。具足櫃に唐団扇紋の旗が納められて伝来した。
金白檀塗色々威壺袖/ 柳川古文書館(16th century, Momoyama period) - 作者: 不詳立花家史料館
金白檀塗色々威壺袖(所蔵:柳川古文書館)
腕になじむように丸く、裾をすぼませた壺袖。金白檀塗板物七段を、上から紫、紅、白、紫、紅、白の毛引威とし、魚々子地桐唐草文を彫った覆輪をめぐらした金白檀塗の折冠板がつく。金物は、裾は金銅魚々子地に杏葉紋、八双と笄は金銅魚々子地唐草文に杏葉紋と酢漿草紋をすえる。本袖の杏葉紋は、大友氏が寄進したと伝わる重要文化財・白檀塗浅葱糸威腹巻(大分・柞原八幡宮蔵)などの、大友氏ゆかりの甲冑との関連を感じさせる。
立花尚政(宗茂)書状/ 柳川古文書館(1602) - 作者: 立花尚政立花家史料館
立花尚政(宗茂)書状(所蔵:柳川古文書館)
宗茂は、徳川家康に対面し大名復帰を期すべく、慶長六年(一六〇一)上方へのぼった。このとき家臣たちは、肥後高瀬(現熊本県玉名市)に駐留していたようである。この書状で宗茂は、家臣たちを統べる立場にあった小野鎮幸に対し、長期駐留が続く船頭たちへ謝意を述べるよう依頼している。
脇指 銘 筑州柳川住鬼塚吉国(17th-19th century, Edo period) - 作者: 初代 鬼塚吉国立花家史料館
脇指 銘 筑州柳川住鬼塚吉国(所蔵:柳川古文書館)
鬼塚吉国は奥州南郷(棚倉)の刀工であったが、宗茂の柳川再封に従い、家老の由布壱岐を頼って柳川へ移住したと伝えられる。初代鬼塚吉国は天正二年(一五七四)生まれとされるため、「筑州柳川住鬼塚吉國」と銘を切る本脇指は、初代吉国の四十代後半以降の作とみられる。刀身を見ると、板目が流れる鍛肌に、細直刃の刃文が大丸に返る。鬼塚派は直刃調の刃文が多く、肥前忠吉の系統といわれることもある。
御領内絵図/ 柳川古文書館(17th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
御領内絵図(所蔵:柳川古文書館)
宗茂再封後の柳川藩領全域を描く絵図。江戸時代後期に旧三池藩領が預かり地になることはあったが、宗茂の柳川再封以来幕末まで藩領はかわることはなかった。本図は、正保国絵図作成事業(一六四四~)の際、作成された藩領図と考えられる
立花宗茂書状/ 柳川市(1624/1645) - 作者: 立花宗茂立花家史料館
立花宗茂書状(所蔵:柳川市)
二代柳川藩主となる立花忠茂が「四人」に申し渡した「役々」の内容を、初代藩主宗茂が承知した書状。「四人」(古庄茂郷・小田部右馬助・安東親清・十時惟利)は、寛永期(一六二四~四四)の奉行と推定され、年貢収納や廻米を差配し、藩や家中借銀を管理するなど、財政を中心に領内支配を担当した。この奉行は後に「中老」とよばれ、藩政運営の中核をなした。
鉄黒漆塗碁石頭伊予札紺糸素懸威二枚胴具足/ 柳川古文書館(18th-19th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
鉄黒漆塗碁石頭伊予札紺糸素懸威二枚胴具足(所蔵:柳川古文書館)
後世の修理跡はあるが江戸時代中期から後期の作とみられる。碁石頭伊予札を紺糸素懸威とし、草摺裾板に熊毛をうえた二枚胴、当世袖、五本篠籠手、小篠佩楯、七本篠臑当の具足。眉庇と吹返しに金銅覆輪をめぐらした鉄地三十二間阿古陀形筋兜に、黒糸素懸威の日根野形 がつく。金泊押丸形前立は後補の可能性がある。面頬は鉄錆地隆武頬。三つ巴紋をあらわす具足櫃に、数種の三つ巴紋の旗、紙采配、具足下着などが納められて伝来した。
立花親成知行宛行状/ 柳川古文書館(1589) - 作者: 立花親成立花家史料館
立花親成知行宛行状(所蔵:柳川古文書館)
宗茂は豊臣政権から、肥後の新領主佐々成政の政策に国人が一揆を起こした「肥後国人一揆」の鎮圧を命じられる。鎮圧後、宗茂は一揆の棟梁とされた隈部親永を預かり、後に豊臣秀吉の命により成敗するが、名族・隈部氏の断絶を惜しんだ宗茂は、庶流の源右衛門尉成真に名跡を継がせて召し抱えた。本状は、宇野に改姓させた源右衛門尉宛の知行宛行状。一揆に加わっていた大津山氏も、三池氏と改姓して同時期に召し抱えられている。
立花親成(宗茂)軍忠一見状/ 福岡県(1600) - 作者: 立花親成立花家史料館
立花親成(宗茂)軍忠一見状(所蔵:福岡県)
関ヶ原合戦では、西軍に加担した宗茂は、総大将毛利輝元の命によって京極高次が城主の近江大津城攻めに加わった。宗茂は、奪取した大津城の守りにつくが、高次が降伏した慶長五年(一六〇〇)九月一五日は関ヶ原本戦の日にあたり、敗戦の知らせを受けることになった。本史料は大津城攻めの直後、由布惟与配下の戦功を宗茂が認定したものである。袖には親成期の花押が据えられている。同年一二月二日には尚政名での史料がみられるので、本状発給から間もなく改名したと考えられる。
立花尚政(宗茂)感状/ 福岡県(1600) - 作者: 立花尚政立花家史料館
立花尚政(宗茂)感状(所蔵:福岡県)
柳川へ戻った宗茂と肥前の鍋島勢との激戦となった、江上八院合戦(現福岡県久留米市・大川市・大木町)において、柳川勢の主将であった小野鎮幸自身の粉骨と、その家臣の軍功を賞した感状。鎮幸が二ヶ所負傷したと記されるが、江上八院合戦の詳細を聞き書きで記録した「小野和泉申候覚」にも同様の記述がみられる。
立花親成(宗茂)書状/ 福岡県(1600) - 作者: 立花親成立花家史料館
立花親成(宗茂)書状(所蔵:福岡県)
本史料から、宗茂は徳川家の人質となる実母宋雲院の上洛費用を用立てることが出来ず、小野鎮幸から銀一〇貫目を借用していることがわかる。たとえ国替えとなっても来秋には返納する旨が記されている。柳川開城の時点で、宗茂は最悪国替えは覚悟していたようであるが、改易されて長い牢人生活が待っているとは、想像だにしていなかったかも知れない。
加藤清正知行宛行状/ 福岡県(1606) - 作者: 加藤清正立花家史料館
加藤清正知行宛行状(所蔵:福岡県)
慶長一一年(一六〇六)、宗茂が奥州南郷(棚倉)領主となると、肥後の加藤家に預けられていた立花家旧臣は、正式に加藤家に召し抱えられた。同年、小野鎮幸は加藤清正から山鹿郡(現熊本県山鹿市)・南郷(現阿蘇市・阿蘇郡一帯)で、立花家旧臣のなかでは最高の石高となる四〇八〇石を宛行われる。慶長一一年には小野のほか、立花(米多比)鎮久など旧支城主クラスの立花家旧臣に対し、清正から知行宛行状が発給された。
立花宗茂書状/ 福岡県(1620) - 作者: 立花宗茂立花家史料館
立花宗茂書状(所蔵:福岡県)
元和六年(一六二〇)であろうか、一二月一日付で、宗茂が小野茂高ら肥後にいる旧臣に送った書状。柳川一〇万九六四七石を拝領し、年明けに筑後に下ることを知らせる。関ヶ原合戦の後、筑後一国を任されていた田中氏が、無嗣断絶によって同年に除封されたことにより、宗茂が南筑後に再封されることとなった。宗茂は「外聞実儀これに過ぎず候」と喜びを伝えている。
公益財団法人立花財団
立花家史料館
柳川古文書館
展示製作
立花宗茂生誕450年記念実行委員会 ≪城下町柳川と武家文化≫発見・体験プロジェクト
平成29年度 地域の核となる美術館・博物館支援事業