訪問着 秋風(2005) - 作者: 青野保夫京都伝統産業ミュージアム
5~6世紀(古墳時代)
5~6世紀(古墳時代)には、男性はズボンのようなものをつけ、女性はロングスカートのようなものを履いていました。
6世紀の後半になると中国大陸の影響を受け衿や袖のついた衣服を身にまとうようになりました。
8世紀の後半(平安時代)
8世紀の後半(平安時代)になると、身幅や袖幅が広くゆったりとした衣服が好まれるようになり、十二単(女性)や束帯(男性)へと移っていきました。この時には「重ね着」の文化で、優雅な衣装が貴族社会の象徴でした。この重ね着の衣装の一番下には小袖を着ていました。しかし、一般庶民は動きやすい「筒袖」をつけた小袖を肌着としてではなく、上着として着ていました。
12世紀(鎌倉時代)
12世紀(鎌倉時代)になり、武士が台頭してくると、動きやすい衣装が好まれるようになり、日常生活にも小袖が用いられるようになりました。しかし、女性は重ね着が中心でしたが、やがて小袖を着るようになりましたが、上着として優雅な打掛などを羽織るようになりました。
京友禅 水辺模様(2004) - 作者: 奥村重昭京都伝統産業ミュージアム
17世紀(江戸時代)
17世紀(江戸時代)になると、社会的には武家が支配社会を形成していましたが、経済的には町人が大きな力を持つようになりました。当時の衣装である「小袖」を構成していた要素としては、小袖の形状以外では生地の素材、模様、加飾技法があげられ、これらの三要素の組み合わせによって小袖はファッションとして展開していきました。この時代、日本には「表(公式な世界)」と「奥(私的な世界)」の2つの概念があり、男性は「表」の世界にいるもの、女性は「奥」の世界にいるものというものでした。それゆえ、男性の衣装は固定化され、くつろぎの「小袖」にも選択の範囲は絞られ、流行の変遷はあまり生じませんでした。
一方、「奥」の世界に生きる女性は衣服の選択には自由度が高く、さまざまなファッションが展開していきました。
明治維新(1868年)以降
四民平等となった明治維新(1868年)以降は「小袖」も「きもの」と名称を変えつつそれぞれの時代や社会的な背景とともに変化していきました。一方、男性の「きもの」の場合は洋服が公的なものとして導入され、「きもの」としては大きく変化するものではありませんでした。
柄をつけた反物の図京都伝統産業ミュージアム
この一枚の反物(38㎝×13メートル)から、概ね八つのパーツ(八掛の由来)に切り分け、直線縫いを主として縫い合わせると一枚の着物ができます。
一枚の布から着物を作る図京都伝統産業ミュージアム
きものになった状態を想定してデザインを決め、染めたり織ったりしていきます。
虹彩会40周年記念 作品7(2007)京都伝統産業ミュージアム
着物の文様の歴史
着物の文様は、その時代の背景と結びつきながら変化し、今日まできものの配置の基本となっています。
桃山小袖
桃山時代は小袖の基本形が完成した時代で、その文様や配置に特徴があります。能装束もその時代を代表する小袖のひとつです。
寛文模様 (1661-1673)
I江戸時代になると、右肩から円弧を描くように左裾に模様を表すダイナミックな構図が現れました。これを寛文文様と読び、絞加工や刺繍が中心でした。
元禄模様 (1688-1704)
柄付けの形式に寛文小袖のような際立った特徴はありませんが、友禅染の興隆が模様表現を大きく変えました。より自由な絵画的な文様になりました。
西陣織(Nishijin-ori/Nishijin woven textiles )京都伝統産業ミュージアム
西陣織
5~6世紀頃大陸から帰化した秦氏が伝えた織物技術は、平安建都(794)とともに官営の機織産業として繁栄します。西陣織の名称は、応仁の乱(1467~77年)後、戦乱を逃れていた織技術者たちが西軍本陣の跡付近で仕事を再開したことにちなんだものです。染めた糸を使って模様を織りだす西陣織は、伝統を生かしながら、常に新しい技術の開発を行ってきました。現在では、西陣で織れないものはないといわれるほど多様な織物を生み出しています。
京友禅(Yuzen fabric dyeing)京都伝統産業ミュージアム
京友禅
白生地に、花鳥風月などの模様を染め上げる京友禅。その華やかさは京友禅の大きな特徴です。 手描友禅と型友禅に大別されますが、手描友禅は、江戸時代中期(17世紀後半)に京都の宮崎友禅斉によって技法が大成され、友禅染の名前のもととなりました。型友禅は明治初期に京都の広瀬治助によって開発されたもので、模様を写し取った型紙を使って染める技法です。多くの工程を経てつくられる京友禅の華麗さは、わが国を代表する工芸品にふさわしいものです。
京鹿の子絞(Kyo-kanokoshibori/Kyoto tie dyeing)京都伝統産業ミュージアム
京鹿の子絞
京都の絞り染めの歴史は古く、10世紀頃に宮廷衣装として用いられていた絞り染めが京鹿の子絞の原点で、立体感のある模様が子鹿の斑点に似ているためその名が付きました。現在では、京都でつくられる絹地の絞り染めを総称して京鹿の子絞と呼びます。複雑で精巧な柄構成が特徴で、疋田絞、一目絞など多様な技法に専門性の高い技術が伝承されています。
京小紋 (Kyo-komon/Komon dyeing)京都伝統産業ミュージアム
京小紋
小さな文様を型染めする小紋染は、16世紀末にほぼ完成されたといわれています。上杉謙信、徳川家康が着用した小紋の帷子や胴服が現存していますが、武士の裃として多く使われ、のちに民間に広まりました。こうして渋い単色染めから出発した小紋ですが、京小紋は友禅染めの影響を受け、独自の発展を遂げます。 絵画のような豊かな色彩をもったパターンが多く使われ、非常に華やかなデザインを特徴とするようになりました。
京黒紋付染(Kyo-kuromontsukisome/Black dyeing)京都伝統産業ミュージアム
京黒紋付染
黒紋付染は、17世紀初頭に確立されたといわれています。江戸時代(17~19世紀頃)、武士の間でびんろうじという植物染料による黒紋付が愛用されました。染料に含まれるタンニンが刀を通さないほど絹地を強くし、護身用として使われたのです。現代、紋付羽織袴や女性の喪服などが国民の礼服となり需要は高まりました。京都の黒紋付染は、明治以降ヨーロッパの染色技術や化学染料の導入によって磨かれ、藍下、紅下や「三度黒」などの技法が確立されました。深みのある黒色が特色です。
きものの種類とTPO
洋装と同じく、和装(きもの)にもTPOに応じた使い分けがあります。ここでは最もフォーマルなものから順にご紹介します
現代の代表的なきもの<振袖>
未婚の若い女性のフォーマルウェアとして着られます。優美な長い袖に、華やかな装飾が施され袖の長さも3段階に分かれています。
現代の代表的なきもの<留袖>
振袖に対して、既婚女性のフォーマルウェアにあたるのが留袖です。袖は短くなり、染め抜きの5つ紋をつけ絵羽裾模様で装飾もぐっと落ち着いたものになります。黒い留袖のほかに、この作品のように色留袖もあります。江戸時代の画家「若冲」の鶏がモチーフになっています。
現在の代表的なきもの<訪問着>
訪問着は、あらたまった場などに用い留袖の次に格式の高いフォーマル用で、洋装のビンテージドレスに相当します。胸、肩、袖、裾などに模様がつながるように染められており、三つ紋もしくは一つ紋を付けます。
現代の代表的なきもの<付下げ>
付下は訪問着より気軽で、小紋よりは格の高いきものです。前後の身頃、身頃から袖などの縫い目に模様がつながっておらず、仕立てたときに模様が上向きに配置されるようにします。
現代の代表的なきもの<小紋>
小紋は繰り返し模様の型染めのきものです。洋装でいえばワンピースのようなもので、フォーマルすぎず砕けすぎず、模様や雰囲気によりおしゃれが楽しめます。友禅染の他、紅型、更紗、絞り染めなど特色のある技法で染められたきものもたくさんあります。
帯
通常の帯は4mあまりの長さがあります。これを着物の上に巻き、形を整えます。
こちらは、桜と紅葉が描かれ
様々なきものに、どんな帯を合わせるか。それもTPOがあり、着る方のセンスが光ります。
着物の着方京都伝統産業ミュージアム
着物立ち姿京都伝統産業ミュージアム
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