「劇画」のルーツ:昭和の「紙芝居」と「貸本」文化

「劇画」とは何か。そしてそのルーツとは?

作成: 経済産業省

『週刊少年マガジン』1970年1月1日号より「劇画入門」、講談社 ©︎さいとう・たかを

街頭紙芝居に集まる子供たち出典: Kjeld Duits Collection / MeijiShowa

劇画と街頭紙芝居

 日本の戦後マンガの発展を考える上で無視できないのが「劇画」である。ティーンエイジャー以上の読者層を意識した題材選びとリアリティ重視のスタイルは、1960年代から70年代にかけてマンガ界を席巻し、「ストーリーマンガ」や「マンガ」に代わる言葉として「劇画」が用いられるようになるほどだった。その劇画のルーツのひとつに、街頭紙芝居がある。

自転車に据え付けられた紙芝居舞台出典: 提供=昭和館

 「紙芝居」はもともと紙人形芝居を意味したが、1930(昭和5)年、長方形の紙に絵を描き、一枚ずつ順番に抜きながら話を進めていく平絵(ひらえ)と呼ばれる形式の紙芝居が東京で流行し始める。手描きの紙芝居を制作する貸元(かしもと)が、実際に街頭で上演する売人と呼ばれる演者に紙芝居を貸し、売人は紙芝居見たさに集まった子供たちにお菓子を売るという商売だった。1931(昭和6)年の調査によるとすでに東京だけで20を超える貸元が存在したといい、その流行はやがて全国に広がっていった。

日本教育紙芝居協会『チョコレートと兵隊』(1939)出典: 提供=昭和館

教育紙芝居と国策紙芝居

 街頭紙芝居の流行は、その内容や表現の俗悪性が、警察や教育者から問題視されるようになる。一方、1935(昭和10)年頃から、子供を引き付けるメディアとしての力を活かして、子供にふさわしい内容の紙芝居をつくり上演する「教育紙芝居」運動も起こる。印刷物として全国に流通するようになった教育紙芝居は、日中戦争が長期化するなかで、国策を国民に理解させる内容のものを含むようになり、国策紙芝居とも呼ばれるものが戦時下に多数制作された。

本間正幸監修『少年画報大全』附録、『冒険活劇文庫』(2015)出典: 少年画報社

戦後の再流行

 戦後、街頭紙芝居は再び全国で流行し始める。その人気は少年雑誌にも波及し、紙芝居の人気作家が起用されるようになった。1930年に始まる紙芝居ブームの火付け役となった永松健夫の『黄金バット』を連載した『冒険活劇文庫』(明々社=現・少年画報社)や、戦時中にすでに『少年倶楽部』(大日本雄弁会講談社)で仕事をするようになっていた山川惣治の『少年王者』を連載した『おもしろブック』(集英社)などが、その代表的な成功例となった。

山川惣治『少年王者 おいたち編』、集英社(1957)出典: ©︎山川惣治

紙芝居から絵物語へ

 長方形の紙に描かれた絵を見せ、その裏に書かれた文章を紙芝居屋が読み上げる紙芝居の上演形態は、雑誌に移されるときには、絵の描かれたコマのそばに文章を添える「絵物語」の形になった。マンガより写実的な街頭紙芝居の絵の様式は絵物語でも踏襲されたが、絵の入ったコマと文章のレイアウトは山川惣治のそれのように比較的オーソドックスなものだけでなく、奇抜なコマ割りのものや、吹き出しを併用するもの、コマの枠線を描かないものや、文章がコマの中に入り込んでいるものなど多様であった。

永松健夫『黄金バット』、本間正幸監修『少年画報大全』附録『冒険活劇文庫』、pp.4-5(2015)出典: 少年画報社

福島鉄次『沙漠の魔王』復刻版、1巻pp.14-15出典: ©秋田書店1949、2012

絵物語とマンガの近さ

 開始当初は吹き出しも併用し、コマの形や大きさも自在に変化させ、なおかつ毎回色刷りで連載された福島鉄次の『沙漠の魔王』(秋田書店、1949-56)は、絵物語を代表するヒット作のひとつだが、今日の目で見るとむしろアメリカンコミックスのスーパーヒーローものに近いように見える。実際この作品が連載された『冒険王』(秋田書店)の編集者は占領軍が持ち込んだアメリカンコミックスを買い集め、福島に参考にさせたという。この作品は少年時代の宮崎駿に多大な影響を与えたことでも知られる。

貸本屋の様子。松本正彦『劇画バカたち!!』pp.6-7(2009)出典: ©︎Masahiko Matsumoto、画像提供:ebookjapan

貸本屋と貸本マンガ

 貸本屋は江戸時代から存在したが、戦後、保証金を取らずにレンタル料だけで本や雑誌を貸し出す方式が成功し、昭和30年代(1955~64年)、全国的に隆盛を誇った。その発展を背景に、貸本屋向けにつくられたマンガ本が数多く出版された。貸本マンガは、俗悪と非難されつつも、マンガ市場のすそ野を広げ、少年少女雑誌掲載のマンガにはない題材や表現が試みられる場となり、戦後マンガの発展を考える上で無視できない役割を果たした。

白土三平『忍者武芸帳』、7巻pp.98-99(1997)出典: ©︎白土三平、岡本鉄二/小学館

紙芝居から貸本マンガへ

 貸本マンガの世界には、水木しげるや白土三平など、ちょうど昭和30年代に衰退し始めた街頭紙芝居から転身してきた者もいた。過激な描写を含む時代劇や、おどろおどろしい怪談ものなどは、街頭紙芝居と貸本マンガの関係の深さを示すジャンルである。白土三平の『忍者武芸帳』(三洋社、1959-62)は、戦国時代を舞台に、織田信長らの戦国武将と、それに対抗する百姓一揆を指導する「影一族」と呼ばれる忍者集団、階級社会の矛盾に気付く剣士らの入り乱れる大河ドラマとして、学生運動や社会運動の盛んな時代背景と相まって、若者たちから高い支持を得た。

白土三平『忍者武芸帳』7巻、三洋社(1960)出典: -

辰巳ヨシヒロ『劇画漂流』下巻、青林工藝舎、pp.204-205(2008)出典: ©︎辰巳ヨシヒロ

劇画の誕生

 貸本マンガは、少年少女雑誌のマンガに飽き足らない、ティーンエイジャー以上の読者層を想定した内容の時代劇や探偵もの、怪談などが多く描かれる場となった。大阪の貸本マンガ出版社・八興の仕事をしていた辰巳ヨシヒロは、そうした読者に向けた、よりリアルでドラマチックなストーリーマンガとして「劇画」という名称を考え、1959(昭和34)年、同じ出版社で仕事をしていたさいとう・たかをらの同志と組んで、「劇画工房」を結成、新聞社や出版社に「劇画工房ご案内」と題したあいさつ文を送付し「劇画」の名を普及させていった。

『週刊少年マガジン』1970年1月1日号より「劇画入門」、講談社(1970)出典: ©︎さいとう・たかを

貸本マンガから雑誌へ

 1959(昭和34)年、少年少女雑誌初の週刊誌、『週刊少年マガジン』(講談社)と『週刊少年サンデー』(小学館)が創刊される。1960年代後半には、貸本マンガの人気作家が続々と両誌に起用されるようになり、特に『週刊少年マガジン』の劇画重視路線は成功を収め、発行部数100万部を超えるに至る。60年代後半から70年代前半には青年向けのマンガ雑誌も次々創刊され、少年誌・青年誌を席巻した劇画はその全盛期を迎える。大伴昌司が、さいとう・たかをの『無用ノ介』を題材に構成した『週刊少年マガジン』の巻頭企画「劇画入門」は、その象徴とも言える。

『週刊少年マガジン』1970年1月1日号より「劇画入門」、講談社(1970)出典: ©︎さいとう・たかを

水木しげる『墓場鬼太郎』1巻(貸本まんが復刻版)(2006)出典: ©︎水木プロダクション、KADOKAWA

水木しげる

 水木しげるの代表作のひとつ『ゲゲゲの鬼太郎』は、神戸で街頭紙芝居の仕事をしていた当時、戦前の街頭紙芝居のヒット作『墓場奇太郎』(伊藤正美・作、辰巳恵洋・絵、1933年)のようなものをつくってみてはどうかと助言されて描いた『墓場の鬼太郎』(1954年)から始まっている(水木自身は戦前版の『墓場奇太郎』は見ていないと言われる)。貸本マンガでは1960年から64年にかけて鬼太郎の登場する作品を複数の出版社で描き、65年からは『週刊少年マガジン』に『墓場の鬼太郎』として不定期掲載されるようになり、67年から『ゲゲゲの鬼太郎』とタイトルを変えて連載された。貸本マンガ版から『マガジン』版へと、鬼太郎のイメージは次第に親しみやすいものに変わっていく。

提供: ストーリー

文:宮本大人(明治大学)
編集:菊地七海、福島夏子+宮﨑由佳(美術出版社)
監修:宮本大人(明治大学)
制作:株式会社美術出版社
2020年制作

提供: 全展示アイテム
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