作成: 京都女子大学 生活デザイン研究所
京都女子大学 生活デザイン研究所
笠間焼とは
笠間という地域性を反映した笠間焼の内容、技法上の特徴とは何でしょうか。柿釉の上に黒釉、あるいは糠白釉の上に銅青釉の「流し掛け」を施した壺、甕、徳利などの素朴な日常陶器が、笠間焼にはよく見られます。笠間焼は酒、醤油、油、茶葉、穀物などの容器として使用されました。
笠間焼の土
平成4年(1992)に国の「伝統的工芸品」に指定された「笠間焼」の生産地域は、水戸など茨城県央から県西まで広く含まれます。笠間焼に使用する陶土は、鉄分が多く、焼成後、赤褐色や橙色に発色します。高台裏などの胎土を見れば、一見区別しがたい「益子焼」は胎土が白っぽいため、判別も可能です。
笠間焼《断面》画像提供:佐藤剛京都女子大学 生活デザイン研究所
笠間焼の釉薬
笠間焼の加飾に用いられる柿釉、黒釉は鉄系釉薬に属し、前者は柿のような濃い赤色を、後者は黒色を発色します。赤い地に黒がアクセントのように打たれ、流れると、その色彩のコントラストが明快で美しいものです。
「流し掛け」について
笠間焼によく見られる釉薬の「流し掛け」は、北は青森県の悪戸焼(あくどやき)、岩手県の小久慈焼(こくじやき)から、南は大分県の小鹿田焼(おんたやき)、鹿児島県の龍門司焼(りゅうもんじやき)など、日本の50以上の産地でも行われています。「流し掛け」は、笠間焼を含め、江戸時代以降の日本に普及した陶器の代表的な加飾技法でもあります。
「笠間焼」という名称と田中友三郎
「笠間焼」「笠間陶器」という呼称が世に知られるようになったのは、明治に入ってのことです。美濃(岐阜県)の陶器商・田中友三郎(たなかともさぶろう)(1829-1913)が笠間に移り住み、明治2年に仕法窯の一つ関根源蔵窯を譲り受け、「笠間焼」と名づけて茶壺や摺鉢を生産、販売しました。田中は積極的に販路を広げ、笠間焼は関東を中心に、広くその存在を知られることとなりました。田中友三郎は明治時代の有名製陶家とともに窯業紙『陶器商報』の「大日本陶業百傑人名」にも挙げられています。
今日の笠間焼から
笠間焼の伝統工芸士でもある陶芸家・佐藤剛(さとうごう)は、笠間の土や、黒釉、柿赤釉などの笠間の伝統釉薬を使って、新たな意匠による現代的な笠間焼に取り組んでいます。