奇才・水木しげるをつくった7つのキーワード

その生き方も魅力的。妖怪を愛した稀代のマンガ家、水木しげるの素に迫る。

水木しげる記念館 廊下出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

『ゲゲゲの鬼太郎』や『悪魔くん』などの傑作を、私たちに遺した水木しげる(1922-2015)。「目に見えないもの」を想像する大切さを教えてくれた、彼の「素」とは? 妖怪から戦争、最愛の妻まで、「水木しげる記念館」を7つのキーワードで巡ります。

のんのんばあとオレ出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

水木の素① 自由な「妖怪」に想いを馳せて

早速「妖怪マンガ」の第一人者としての顔からスタート。水木といえば、やはり『ゲゲゲの鬼太郎』(1965)に代表される「妖怪」のイメージが強い。しかし1960年代当時、「妖怪は民俗学や人類学だけで使われる、失われた言葉だった」とは「水木しげる記念館」の庄司館長。「科学が発達していない江戸時代は、世界に筋道をつけ納得するため、そして子を危険から遠ざける教育のため、妖怪を引き合いにすることが多かったはず。近代に一度衰退した言葉を、水木が復活させたといっても過言ではありません」

英語へ翻訳しづらいほど、日本ならではの世界観や自然への畏怖を反映している妖怪。ゴースト(幽霊)でもモンスター(怪物)でも、ましてデビル(悪魔)でもない。普段は人間にいたずらをすることはあれど、基本的に自由に生きている。水木も作詞に関わった『ゲゲゲの鬼太郎』の歌の歌詞中では、妖怪は学校も試験も、会社も仕事も、死も病気もない、と歌われている。そのストレスフリーな生き方に、むしろ憧れを抱く現代人は多いだろう。

鳥取県境港市 漁港出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

水木の素② 出身地の海が隔てる「こちら側」と「あちら側」

では、水木が妖怪への理解を深めるきっかけとは? その一つが、多感な子ども時代を過ごした出身地、鳥取県の境港市の風景にある。近所の海の先を見上げると、そこには古来より崇められた神々の国、出雲の山が広がっていた。まるで三途の川に似たシンボリックな光景から、水木少年は「人間以外」の世界を肌で感じたのかもしれない。

常設展示 「のんのんばあとオレ」出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

水木の素③ 「のんのんばあ」との出会い

そして水木に妖怪を教えた恩人といえば、「のんのんばあ」こと景山ふさ。1977年に水木は、彼女との思い出を記した自伝小説『のんのんばあとオレ』(筑摩書房)を発表している。水木家の手伝いとして時々出入りしていた彼女から、多くの妖怪の話を聞き、また実際に彼女と妖怪に遭遇したこともあった。「のんのん」とは、境港近辺で神仏を拝む民間宗教者を呼ぶ「のんのんさん」からきたもの。

常設展示 「のんのんばあとオレ」出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

「水木しげる記念館」ではのんのんばあのエリアがあり、彼女が教えた妖怪たちを紹介。夜道で誰かがついてくると感じたら、疑うべきは「べとべとさん」(写真)だ。彼女は遭遇したときの対処法まで、水木少年に教えてくれた。ほかにもお馴染みの「ぬりかべ」や、神様を守る妖怪「おとろし」などが登場。

常設展示 「のんのんばあとオレ」出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

「見えない世界」へと誘われて

のんのんばあに連れられて訪ねた、境港の正福寺の「地獄極楽図」をみて「あの世」への関心をもったという幼き日の水木。彼女の思い出を抱いたまま、水木は「妖怪マンガ家」へと成長していく。「みえんから おらんというのが まちがいのもとじゃがナ」という、彼女の言葉。大人になっても子どものように澄んだ眼で世界を楽しんだ水木の原点が、ここにある。

水木しげる記念館 展示出典: 水木しげる記念館

水木の素④ 戦地での壮絶な戦争体験

「誰にみられることもなく 誰に語ることもできず ……ただわすれ去られるだけ……」。『総員玉砕せよ!!』(講談社、1973年)で描かれた、戦場で死に直面する兵士の、あまりにも悲しいこのモノローグ。水木が「90%事実」と語るこの作品は、1943年に21歳で召集令状を受け取り、南洋の激戦地だったニューブリテン島(ラバウル)で戦った彼の自伝的マンガだ。

水木ギャラリー出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

所属部隊は敵襲を受けほぼ壊滅し、生き残ったのは水木ただ1人。さらにマラリアの療養中に受けた空爆で、左腕を失ってしまう。このとき間近で見た生と死の強烈な対比が、その後の水木の作風にも強く影響を与えていった。腕一本で、ひたすらマンガを描き続けた水木。「水木しげる記念館」に展示されているシャツは、机を抑える左肩の部分にインクが飛び散り、その作業がいかに大変なものだったかを想像させる。

冒険家 水木しげる出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

水木の素⑤ 世界を知るための冒険の旅

自称「冒険家」としての顔も忘れてはいけない。世界に強い関心を持っていた水木だが、たくさん旅行にでるようになったのは59歳のときから。自らの水木プロダクションも軌道に乗り、50代から「健康のため」徐々に仕事をセーブしていく。そしてパプアニューギニアやアフリカ大陸、ヨーロッパなど、長年夢見ていた地を踏みしめる。

冒険家 水木しげる出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

どこへ行っても天真爛漫かつユーモアたっぷりな性格で、現地の人と交流した水木。ワクワクして元気いっぱいの彼の姿が、たくさんの写真に収まっている。

冒険家 水木しげる出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

偏見を持たず分け隔てない水木は、旅先で歓待されることが多かった。戦時中兵士として赴任したラバウルでも、現地のトライ族と「同胞」として親交を深め、戦後もそのまま彼らと暮らしていくか真剣に悩んだほどだという。その後トライ族と再会するという約束は26年ぶりに果たされ、その後も訪れる仲に。

冒険家 水木しげる出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

民俗学者も顔負けの好奇心を発揮

各地では、妖怪研究も怠らなかった水木。精霊や妖怪の仮面から美術品まで、求めた品々を水木は大切に保管し、悦に浸っていたそう。自宅の2階が、さながらギャラリーになるのに時間はかからなかった。この経験をもとに、「世界の妖怪は大体1000種類に分類できる」という自身の「妖怪千体説」に迫っていく。

冒険家 水木しげる出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

水木は片腕でも、パッキングの達人だった。特に注目は、工芸品や美術品を旅先から日本へ持ち帰るテクニック。そうした貴重な品も使用後の下着で包んでいれば、税関職員はすぐスーツケースを締め通過させてくれたという。水木ならではの裏技だ。

妖怪ひろば出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

水木の素⑥ 妖怪研究者としての顔

水木が小さな頃から格別の情熱を傾けたのは、やはり妖怪だ。日本民族学会に所属し、自身の研究成果を大百科や辞典にして発表していた。日本各地の妖怪を紹介するパネルは、「水木しげる記念館」でも展示中。

水木しげるロード 水木しげると妻・武良布枝のブロンズ像出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

水木の素⑦ 最愛の妻・布枝さんの支え

最後「素」はなんといっても、水木が39歳のときに結婚し93歳で亡くなるまで苦楽をともにした妻、布枝の存在だ。水木43歳まで厳しい生活が続いたが、布枝は諦めず、枠線引きやベタ塗りなど水木のマンガ作りをサポート。「どうやって生活しよう」と悩むときもあったが、腕一本で必死にマンガを描き続ける夫を見て全力で応援しようと決意したという。後にNHKのドラマにもなった、二人三脚の大奮闘。現在も境港市では、仲睦まじい2人の像が桜を見上げている。

水木ギャラリー出典: 水木しげる記念館 ©︎水木プロ

肩の力を抜いて、妖怪のように生きてみる

水木の笑顔の横に飾られているのは、「少年よ がんばるなかれ」と脱力する言葉が書かれた直筆色紙。見えないものも否定しない、柔軟な発想の持ち主だった水木が描くマンガは、読むたびに子どもの頃の素直な気持ちを思い出させてくれるのだ。よく寝てよく食べ、よく笑ったマンガ家、水木しげる。彼が生んだ自由な妖怪たちが、「一緒に遊ぼう」と今も私たちに囁いている。

提供: ストーリー


当記事は、2020年7月に取材し制作したものです。
協力:
水木プロダクション
水木しげる記念館

撮影:上原 未嗣
執筆・編集:大司 麻紀子
編集:林田 沙織
制作:Skyrocket 株式会社

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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