脇指 無銘(雷切丸)(13th-16th century, Kamakura~Muromachi period) - 作者: 不詳立花家史料館
脇指 雷切丸
立花家初代・戸次道雪の愛刀にして伝説の名刀。もとは刀身が長い太刀でしたが、尻の方から短くして、今は脇指となっています。刀身の先の反りが強い輪反り風の姿が、往時の太刀であった頃の姿を偲ばせます。宝暦9年に、本阿弥が「相州物」と鑑定しています。
道雪が大木の下で昼寝をしていたところに雷が落ちてきたため、枕元の太刀「千鳥」を抜いて雷を切ったという伝説が残っています。その後、道雪は足を痛め、出陣するにも輿を使用するほどでしたが、この太刀を佩いて並の武者よりも活躍したため、この刀の名は、「千鳥」から「雷切丸」と改められました。
【薙刀 銘 天文廿二年三月十三日豊州高田住平家盛作】
茎表の銘によると、当時大友氏の支配下にあった豊後国高田地区(現在の大分県大分市鶴崎近辺)に住んでいた平家盛が、天分22年(1553)に作ったことが分かりますが、刀工・家盛についての詳細は不明。茎の裏には、戸次鑑連(道雪)が好んで用いた、と刻まれています。この薙刀が作られた頃、道雪は40代と壮年期を迎え、大友家重臣及び歴戦の武将として活躍していました。この大振りの薙刀を手に、戦場を翔る道雪の姿が彷彿されます。
【黒漆塗薙刀拵】
戸次道雪が所持した平家盛作薙刀の拵。薙刀身製作時よりやや下る桃山期の製作とみられますが、現存する薙刀拵の中では、年代の遡る貴重な資料作品です。
【立花鑑虎像】
柳川藩三代藩主の肖像画です。豊かな元禄時代を反映してか、武具などの所用品はそれまでと違って金を多用した華やかなものが多くみられます。この肖像画には、金蒔絵で家紋があらわされた太刀が描かれています。
【梨子地杏葉紋蒔絵細太刀拵】
儀礼用の太刀拵で、武用の太刀に比べて細身で、また、飾太刀に比べ飾金具が小さいために細く見えることから、「細太刀」と呼ばれています。柄は、総金具で金地鑢地、俵鋲が表裏に四つずつ付いています。露先緒は、紺染革。鞘は、金梨子地に杏葉紋を金平蒔絵で散らしています。
【底黒塗白鮫着柄】
刀の柄の部分。木製で、全体を鮫皮とよぶ白いエイの皮で包んでいます。表面にあらわれている丸く隆起した粒々が滑り止めにもなり、かつまた、鑑賞のポイントにもなっています。これは、墨ざしと言われる技法で、鮫皮の底を黒く染め、隆起部分の白が地模様として引き立ちます。目貫は、金の二双の杏葉紋で、大友家から繋がる立花家の重要な替え紋です。
【金梨子地祇園守唐草蒔絵刻鞘】
金梨地に、蒔絵で銀の唐草と金の祇園守紋が散らされています。この祇園守紋は、二代藩主立花忠茂が立花家の家紋として使用したタイプのもので、格調高い装飾文様としてデザインに取り込まれた作例です。 鞘の表面に一定の幅で刻み模様を付けた刻鞘で、凹凸面にこれだけの蒔絵を研ぎ出すのは至難の技だったと思われます。
【金梨子地祇園守紋散蒔絵鞘】
小さ刀の鞘。様々な立花家の紋 ー立花杏葉紋、扇祇園守紋、祇園守(紋御定紋)、捻祇園守紋、帆の丸祇園守紋ー が金銀高蒔絵で表されています。江戸時代歴代藩主が使用してきた家紋が勢揃いしているので、製作は江戸時代中期以降と考えられます。ここでは、家紋が装飾文様として使用されています。
【祇園守紋笄・目貫】
目貫と笄が同じ意匠で揃いになっているものを二所物といいます。笄は、表面を赤銅魚子地高彫、裏面は磨地で仕上げています。目貫は赤銅で容彫(背景を作らず、モチーフの輪郭線の形に作り、そこに高彫を施したもの)で作られています。 ここに表されている祇園守紋は、二代から三代藩主の頃に使用されていた祇園守紋の特徴を備えており、たなびくような形状をしています。
【潤塗祇園守紋蒔絵刀筒】
江戸時代、参勤交代などの大名行列の際、大名の刀は拵えに入った状態でさらにこのように入念な装飾と堅牢な作りの筒に入れて運搬されました。漆塗に金平蒔絵で唐草と御定紋である祇園守紋が入れられており、これは一般的な装飾パターンでした。
【刀 無銘 伝兼光】
銘はありませんが、古くから有名な刀工集団が活動していた備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市長船地区)の刀工・兼光の作と鑑されています。「肩落ち互の目乱れ」と称されるこの刃文は、兼光の父・景光が最も得意とするもので、その一門によく見られる特徴です。 立花家伝来の「御腰物由来覚」は、戸次道雪が常に指料としていた本刀を、初代藩主・立花宗茂が譲り受け、いつも合戦に用いていたと伝えています。その後、3代藩主・鑑虎が家臣に下賜しましたが、4代・鑑任の代に返還され、幕末には道雪を祀った神社に奉納されていました。
【脇指 銘 貞宗】
脇指にする為に銘の部分まで切り落とされた後、「貞宗」と刻まれています。しかし、相模国(現在の神奈川県)の代表的刀工・貞宗の作である可能性は低く、作風が似ている刀工の作とみられますが、刀剣の出来は優れています。 初代藩主・立花宗茂は、長光の剣、貞宗の脇指、兼光の刀の3口を、朝鮮出兵の際などに指料としていたと伝えられています。立花家伝来の「御腰物由来覚」には、本当は宗茂の指料「剣切貞宗」として受け継がれていたが、3代藩主・鑑虎の代に一度家臣に下賜され、その後再び鑑虎の手元へ戻されたと記されています。
【短刀 銘 安吉】
安吉は、南北朝時代(1333~92)に筑前地方(現在の福岡県北西部)で作刀していた名工・左文字の子であり、後に長門国(現在の山口県北西部)に移住しました。本短刀は、師でもあった左文字の作風に似せて作られています。 立花家伝来の「御腰物由来覚」には、本短刀は「小脇差」として、初代藩主・宗茂から2代・忠茂、3代・鑑虎と代々譲られ、鑑虎から嫡子・千熊丸へは御守刀として贈られたが、千熊丸が早世した為に、娘・石子の御守刀とされたと記されています。その後、4代・鑑任の代に家臣へ下賜されましたが、7代・鑑通の代に返還されています。
剣 銘 長光(13th century, Kamakura period) - 作者: 長船長光立花家史料館
【重要文化財】剣 銘 長光
宗茂が20歳に岩屋城で自害した父・高橋紹運の形見であり、宗茂は生涯この剣を片時も離しませんでした。宗茂が15歳で戸次道雪のもとに養子に行く日、暇乞いの盃を交わした時、父紹運より「今後は少しでも自分を父と思ってはいけない。万が一自分と敵味方となった場合、先頭となって自分を討て、それに迷いが生じるならば岩屋の城には戻らず潔くこの剣で自害せよ」という言葉とともに手渡されたものと伝えられてきました。
長光は、鎌倉時代後期に活躍した備前国の名工として知られています。長光作の剣は珍しく、頭が張らない鎌倉時代の姿をよく見せていて貴重な作例です。
短刀 銘 吉光(13th century, Kamakura period) - 作者: 粟田口吉光立花家史料館
【国宝】短刀 銘 吉光
この短刀は、建武3年、前立花家の初代貞載が、京の都で武勲をたて足利尊氏から拝領したものと伝わってきました。吉光は山城国の刀工で、通称を藤四郎といい古来短刀の名手として知られました。本作はその中でも特に身幅が広く、先がかすかに内側に反っている姿は包丁とも似ています。700年以上を経た今なお健やかで、全体のすがた、刃文、地肌すべてが格調高く力強い名刀として、現在は国宝に指定されています。
【黒漆塗合口拵】 短刀吉光の拵で、江戸時代の初め頃に作られたものです。このように鐔のないものを合口拵といい、江戸時代の大名の殿中での礼装ではこの様式のものが使用されます。鞘は黒漆塗り、柄は鮫着と呼ばれますが、実際はエイの背中の革を巻いたもので、補強のために黒漆で塗っています。 柄の側面に着けられた目貫という金具は、猛虎をかたどっています。また、鞘に装着する小刀の柄には、野牛のレリーフがあしらわれています。