1つのバンドが日本の音をどのように作ったか

イエロー・マジック・オーケストラ

作成: Google Arts & Culture

文:吉村栄一

Yellow Magic Orchestra 1980 (Photographer: Kenji Miura)(1980)

Yellow Magic Orchestra(YMO)は、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏の3人によって、1978年に結成された。細野晴臣は1970年代前半に日本のロックの礎となった伝説のバンド“はっぴいえんど”の創設者。坂本龍一は東京藝術大学院で作曲を学び、現代音楽と電子音楽に精通する音楽家。高橋幸宏は1970年代にイギリスでもデビューした“サディスティック・ミカ・バンドのメンバーで、ファッション・デザイナーでもあった。
白魔術でもない、黒魔術でもない、音楽のイエロー・マジックを生み出すバンドがYMOだった。

Yellow Magic Orchestra - Computer Game 1979(1979)

YMOは、コンピューターとシンセサイザーで彩られた無国籍なエキゾティック・サウンドをディスコ・ビートに乗せた音楽を創造するために結成された。その当時に影響を受けたのはアメリカのマーティン・デニー、ドイツのクラフトワーク、イタリア人プロデューサーのジョルジオ・モロダーたちが作っていた音楽。最初にレコーディングしたのはマーティン・デニーの曲をコンピューターとシンセサイザーでカヴァーした「ファイヤークラッカー」。冒頭にコンピューター・ゲームの効果音が入り、日本以外では「コンピューター・ゲーム」というタイトルでシングル発売された。

MC-8 and data cassette tapes 1980 (Photographer: Kenji Miura)(1980)

YMOは結成当初から、ローランド社製の音楽用マイクロ・コンピューター“MC-8“を積極的に利用した。それまでのシーケンサーとちがって、音色やリズムの複雑な制御が可能なMC-8の操作のために、冨田勲の弟子だった松武秀樹がエキスパートとして招聘された。ローランド社の開発者が驚愕したのは、スタジオでの録音のために設計されたこのコンピューターを、YMOはコンサートでも使用したことだ。YMOのステージにおけるバッキング演奏はあらかじめ録音されたテープではなく、MC-8によるリアルタイムの自動演奏だった。松武秀樹によってステージではMC-8のデータはカセット・テープからロードされていた。これによりYMOはライヴ演奏でも複雑多彩な表現を可能としたのだった。

Advertisement in the US 1980 (Yellow Magic Orchestra)(1980)

1978年にリリースされたファースト・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』は、すぐにアメリカのA&Mレコードの目に止まり、アメリカでリミックスを施した上で1979年にワールド・ワイドで発売された。海外発売用の新しいジャケット・アート、プロモーション・ヴィデオは、どちらもアメリカ人クリエイターが手がけ、西洋から見た日本、東洋がモチーフとなっている。旧来の「フジヤマ/ゲイシャ」とこの時代からの「ウォークマン/半導体」という新旧のイメージが合体したものだった。イエロー・マジック・オーケストラもこれに応え、1979〜1980年を通して誤解された東洋、カリカチュアライズされた日本のイメージを自分たちのパブリック・イメージに援用することとした。

Instrument sets of 1979 (Photographer: Kazuhiro Kitaoka)(1979)

ローランドのMC-8やモーグの巨大モジュラー・シンセサイザーMoog III-Cは初期のYMOの音楽を支えたが、その他のいくつものシンセサイザーの音色が彼らの音楽に彩りを添えている。
モーグのポリ・モーグ、コルグのPS-3100、オーヴァーハイムのオーヴァーハイム・エイト・ヴォイス、ポラードのシンセサイザー・ドラムなど。そして主旋律やベースとして大活躍したシーケンシャル・サーキットのプロフェット5、アープ・オデッセイ、さらにYMOのサウンド・アイコンともなった特徴的な声であるローランドのヴォコーダーVP-330も忘れてはいけない。TOKIO!

Los Angeles, The Greek Theatre performance 1979 (Photographer: Kenji Miura)(1979)

YMOは1979年にセカンド・アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発表。エキゾティック・ミュージックやディスコに影響を受けたファースト・アルバムとちがって、この作品ではポスト・パンクとニューウェイヴの影響が大だった。日本で大ヒットとなった「ライディーン」や、後にマイケル・ジャクソンがリメイクする「ビハインド・ザ・マスク」、ビートルズのカヴァー「デイ・トリッパー」などが収録されたこのアルバムは日本で100万枚以上のセールスを記録した。YMOはこのアルバムを発表後、初めてのワールド・ツアーを行った。

London Hammersmith Odeon 1980 (Photographer: Kenji Miura)(1980)

YMOは1980年にも2度目のワールド・ツアーを行った。これはヨーロッパ数か国とアメリカを回る大規模なツアーとなり、ロンドンでは名門会場“ハマースミス・オデオン”でコンサートを行い、多くのセレブリティが訪れた。ハリウッドでの日本に向けた衛星中継のコンサートも同様だった。また、このツアーの合間にYMOは日本人アーティストとして初めて、テレビ番組『ソウル・トレイン』に出演。アメリカでヒット・シングルとなったアーチー・ベル&ドレルスのカヴァー曲「タイトゥン・アップ」を披露して話題になった。このツアーを終えて帰国した彼らは東京の日本武道館で4日間連続公演。YMOは日本で社会現象になっていた。

Instrument cases including the TR-808’s at the Nippon Budokan 1980 (Photographer: Kenji Miura)(1980)

1980年12月に行われた日本武道館での4日間連続公演で、YMOは革新的な電子楽器を試験導入した。それはまだ発売前だったローランド社のプログラマブル・リズム・マシンTR-808。この後に世界のダンス・ミュージックの変革をうながしたこのTR-808を、YMOは1981年春に発表したニュー・アルバム『BGM』にも全面的に導入した。
また、続いて同年11月に発売されたアルバム『テクノデリック』では、松武秀樹が開発に参加した手作りのサンプリング・マシーンLMD-649を使用。世界初の、サンプラーを大々的に導入したアルバムとして記憶されることになった。

Budokan audience 1983 (Photographer: Kenji Miura)(1983)

YMOは1983年、最後のスタジオ・アルバムを制作する。日本の「歌謡曲」と呼ばれるポップ・ミュージックに寄った作品だ。YMOの3人のメンバーはそれぞれ前衛的な活動をYMOやソロ作品で行いながら、並行して歌謡曲の仕事も行なっていた。職人としてのそれらの仕事は21世紀以降、日本の独特のポピュラー・ミュージックとして海外でも注目されるようになった。
彼らは1983年で解散することを決めており、ポップなそのアルバム『浮気なぼくら』と日本武道館公演を含む大々的な日本ツアーはファンへのお別れのプレゼントだった。

YMO 1981 (Photographer: Kenji Miura)(1981)

1978年から1983年までのYMOの活動は日本の文化の歴史に大きな足跡を残したが、同時に日本国外にも大きな影響を与えた。
単純に音楽だけをとってみても、同世代の多くのシンセ・ポップのアーティストの敬愛を勝ち取ったし、YMOの目標のひとつでもあったクラフトワークも、YMOの影響で日本発の造語「テクノポップ」を後にアルバム名に採用した。来日公演のあと、クラフトワークとYMOのメンバーが揃ってディスコに遊びにいった5年後のことだ。
YMOのヒット・シングル「コンピューター・ゲーム」はジェニファー・ロペスなど多くのアーティストの作品でサンプリング使用されている。

YMO 1992 (Photographer: Kenji Miura)(1992)

1983年でYMOの活動を終えた3人のメンバーは、それぞれソロ・アーティストとしての活動を活発に行っていった。細野晴臣はエレクトロからアンビエント・ミュージックに方向を定め、坂本龍一はポップ・ミュージックと並行して映画音楽作家となり、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』で米アカデミー作曲賞などを受賞した。高橋幸宏はJ-POPと呼ばれる日本ならではのスタイルのポップスを追求した。
彼らが再結成を果たしたのは10年後の1993年だった。

YMO getting ready for recording 1992 (Photographer: Kenji Miura)(1992)

1993年の再結成では、YMOは1970年代〜1980年代のヴィンテージな電子楽器と、当時の最先端のデジタル機器を同時に使用し、マッキントッシュ・コンピューターで音楽を制御した。再結成アルバム『テクノドン』のレコーディング時にはマッキントッシュでコンピューター・ゲームも楽しんだことは言うまでもない。再結成したYMOはコンピューター・グラフィックの映像を駆使した大規模なコンサートを東京ドームで行った。

HASYMO Pacifico Yokohama National Convention Hall 2007 (Photographer: Kenji Miura)(2007)

21世紀に入り、YMOはさまざまな名義を使用しつつ、最終的にはYMOを名乗って再々結成を果たした。最初の2005年当初はエレクトロニカを基調にそれぞれのソロ曲や細野晴臣と高橋幸宏のユニット“スケッチ・ショウ”の曲を演奏していたが、次第にかつてのYMOのクラシック曲が演奏されることも増えていった。
また、彼らは若い世代のミュージシャンをサポートとして積極的に起用して、世代間の交流、音楽の継承にも意欲的になっていた。

YMO 2009 (Photographer: Kenji Miura)(2009)

YMOは再々結成後、日本国内で定期的にコンサートを行ったほか、2008年にヨーロッパ、2011年にはアメリカ合衆国で短いツアーを行った。ヨーロッパ(ロンドン、ヒホン)でもアメリカ(ロスアンジェルス、サンフランシスコ)でも、1980年のワールド・ツアーからずっと彼らを待っていたという古参の観客と、YMOの存在をエレクトロニック・ポップのレジェンドとして最近知ったという若者たちというふたつの世代が会場に集まった。

YMO 2016 (Photographer: Kenji Miura)(2016)

2013年、YMOは再々結成の活動を終了したが、それはグループの解散ではなく、彼らの間には緩いながらもしっかりとした絆がいまだ存在している。YMOは折に触れてトーク・イベントやテレビ番組で、あるいはそれぞれのソロ公演に他のふたりがゲスト参加するという形で瞬間の再生を果たしている。最近では2018年の細野晴臣のロンドン公演で坂本龍一と高橋幸宏がゲスト参加してYMOの1979年の楽曲「アブソリュート・エゴ・ダンス」を演奏した。

Yellow Magic Orchestra - 40 Years(2019)

提供: ストーリー

文:吉村栄一
三浦憲治撮影

提供: 全展示アイテム
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