暗黒舞踏を知る7つの要素

三上賀代の研究による「暗黒舞踏を知る7つの要素」

暗黒舞踏(とりふね舞踏舎)とりふね舞踏舎

木村太一監督
暗黒舞踏ドキュメンタリー「Dark Ballet」

暗黒舞踏(とりふね舞踏舎、Torifune Butoh Sha)とりふね舞踏舎

暗黒舞踏の始まり『禁色』

暗黒舞踏は、土方巽(1928-1986)31歳のデビュー作『禁色』(1959年、於・第一生命ホール)をもって始まる。『禁色』は、仏人作家・ジャン・ジュネの男色のエピソードにより、作家・三島由紀夫の小説の作品名を借用した15分の作品。薄暗闇の中、17歳の少年・大野慶人を追う青年・土方の靴音だけが聞こえ、倒れた少年に重なる土方の「ジュ・テーム」という声と、少年の性的呻き声が聞こえる。立ち上がった土方が股間で鶏を絞め殺し(実際には殺していないという証言もある)愛の伝授としての鶏を差し出すという過激な展開に、観客の大半の女学生が席を立ったと言われている。「平穏な日常を揺るがすもの」「こうした作品は個人のリサイタルで発表すべき」という舞踊協会の批判に、土方および土方支持の大野一雄らは協会を退会することになる。  

暗黒舞踏(とりふね舞踏舎)とりふね舞踏舎

国内に於いての暗黒舞踏はその誕生以来長くスキャンダラスの代名詞であった。特にアカデミズムからは「白塗りの剃髪、裸…ただ晒すだけの芸のない素人の裸踊り」と蔑視され続けた。80年代、暗黒舞踏は「戦後日本に生まれたオリジナルな現代舞踊」と欧米を中心に「Butoh」ブームを引き起こし、パリ逆輸入の山海塾を筆頭に日本に還流する。 暗黒舞踏は、今日、舞踏(BUTOH) という名称で国内外に定着し、踊り手は舞踏家、舞踏手と称され、他のいわゆる舞踊家とは区別されている。

暗黒舞踏(とりふね舞踏舎)とりふね舞踏舎

創始者・土方巽

本名は米山九日生(よねやまくにお)。1928年三月九日、一年の半分を雪に閉ざされた寒冷地の秋田県に生まれる。昭和天皇即位の年であった。没年は1986年、その二年後に昭和天皇が崩御する。「昭和の子」といわれる所以である。 
昭和という時代は、芸術家にとっては近代化と脱近代化が重なった時代であった。音楽、美術、文学といったあらゆるジャンルにおける芸術家が抱えていた問題は土方が抱えていた問題でもあった。土方が転換期を迎えた1960代は、世界的に価値観が変動した時代だった、敗戦後日本は急速な経済発展を遂げ、高度成長のピークに向かう一方、安保闘争に代表される国内状況は価値転換を求める世界的文化の胎動と見事に呼応、西欧合理主義の破綻の結末一つの現れとして、演劇、舞踊においては「肉体の復権」、さらに「日本人の肉体の復権」が叫ばれた。

明治以降の日本の芸術は、その多くが、西欧に範をおくことによって始められ、次に自分自身の出自に出会うことで、より独創的な表現を求めることができた。土方もまた例外ではなかった。明治以降の日本の芸術家たちの多くと同様の道を歩み、西欧から移入された近代を超克、自身の芸術的命題を提示し続けることになる。

 生地秋田の風土と出会った時期でもある。雪国と田んぼの生み出す身体の「がに股」などの形態を挙げて、手足を縮めた雪国の生活と、暗黒舞踏の「縮んだ手足」という形態を舞踏のレトリックとして掲げた。
土方舞踏において、「東北」や「田んぼの中のぬかるんだ足」は、既成の舞踊、即ちバレエに対する、身体知覚のための大きな契機に過ぎない。何故なら土方は「イギリスにも東北はあります」と語っており、より根源的な舞踊を目指すために東北ということをレトリックとして用いたのである。

暗黒舞踏(とりふね舞踏舎)とりふね舞踏舎

逆輸入した暗黒舞踏

1970年代初頭、ロックフェラーからの渡米要請、フランスの演劇祭からの要請他を断り、土方は一度も海外に出ることがなかった。弟子の麿赤児率いる「大駱駝艦」系列の「山海塾」のヨーロッパデビューを筆頭に、マイナーなアングラだった舞踏は、国外の評価を得て国内的に一般認知されることになる。
海外に一度も出ることのなかった土方は、招聘に応じなかった理由を、親交のあった天井棧敷の寺山修司に以下のように語ったと寺山のプロデューサーだった九絛今日子が伝えている。「整備された西洋の固い土の上では踊れない。自分の舞台はぬかるんだ土の上でなければならない」。

しかし、土方の一番弟子だったカリフォルニア在住の舞踏家・玉野黄市によれば、一度だけフランスのパリオペラ座公演が実現しかけた機会があったという。その時、土方のオペラ劇場側への提案は、棺に入ったままオルリ空港から霊柩車でオペラ座に向かい、正面階段を上り劇場内に入り、そのまま客席から舞台に運ばれ設置、その棺から立ち上がるところから舞台を始めるというものだったという。だがこの公演は実現しなかった。

暗黒舞踏(とりふね舞踏舎)とりふね舞踏舎

暗黒舞踏の名称

土方巽が暗黒舞踏派を名乗るのは1960年代であるが当初はこの名称を使用していない。 暗闇舞踊、舞踏と称していた時期がある。土方未亡人である元藤燁子(もとふじあきこ)によれば、当時日本でフランスの暗黒街を描いた映画、フィルム・ノアールが流行っていて、このことから暗黒舞踏としたと「アスベスト館通信」に記している。 フランス語のノアールを暗黒と日本語に置き換えたのである。

鬼燈(とりふね舞踏舎)とりふね舞踏舎

暗黒舞踏派を名乗って以降、日本国内において土方の舞踊スタイルは暗黒舞踏の名前で定着、芸術の変革を志向する美術家などのアーティスト、前衛演劇、学生運動で変革を叫ぶ若者たちに支持されていく。大野一雄、山海塾などの暗黒舞踏派が海外進出するに及んで、やがて暗黒舞踏が「BUTOH」と称されるようになり、この名称で今日に至っている。

暗黒舞踏(とりふね舞踏舎、Torifune Butoh Sha)とりふね舞踏舎

暗黒舞踏の特徴

「世界の舞踊は立つところから始まる。しかし、舞踏は立とうにも立てないところから始まる」として、一生涯寝たきりの「病める舞姫」が、「一生に一度でいいから立ちたい」と願い立つ「崩れるような立ち姿」を暗黒舞踏の基本に置いた土方は、すらっと伸びた長い手足で飛翔し天空に幻想世界を創造したバレエに対し、歪み縮んだ日本人の「がに股」による「沈む」ことを基本に、地上の森羅万象の表現を創出する。

暗黒舞踏(とりふね舞踏舎)とりふね舞踏舎

能や日本舞踊等の様式化された伝統芸能とは違い「仮面の裏の惨禍」そのものを探ることになる。 土方は、「表現は表現しない表現」「自己放棄」「‘なる’」ことを求めた。「消えるから現われる」という土方特有のレトリックもまた「表現」とは何かへの問いである。 舞踊批評家・合田成男は「海外の舞踊は地上より20センチ上に世界を描き、日本の舞踏は20センチ下に世界を描く」と語っている。

暗黒舞踏(とりふね舞踏舎)とりふね舞踏舎

舞踏とは何か

 何を持って舞踏とするか、今日これに対する明確な答えはない。従って、土方死後、舞踏家は自己申告に依ってしか舞踏家たりえなかった。日本における土方舞踏全盛期には多くの批評家を初め舞台関係者はその衝撃性、斬新性についてさまざまな視点からの論考を試みてはいる。が、それが何によって、つまりどこでどのような方法で成立しているかまでは説明しえなかった。土方舞踏についての言説はほとんどが外側からの視点でしかなかった。西洋史的、日本芸能史的枠組み、あるいは民俗学的枠組といった視点は、周辺から舞踏に迫ろうという試みであり、その先には進めなかった。土方舞踏の理解を阻んだのは、土方のたぐいまれな韜晦的な言語(澁澤龍彦)であった。土方の代表的著作『病める舞姫』も「エッセイであり、詩であり、散文であり、旅行記、舞踏の台本……」といわれる意見もあるほど捉えどころのないものであったことから、「土方言語」といわれた。研究者にとって、土方言語の「日本語への翻訳」が難問だった。加えて秘儀性である。土方は弟子以外には誰も稽古の現場には入れなかった。言葉で振付けた土方の稽古現場は弟子にしか共有できなかった空間であり、外部からのアプローチは完全に遮断されたものだった。

暗黒舞踏(とりふね舞踏舎)とりふね舞踏舎

舞踏譜

土方の弟子のほとんどは踊り全く基礎のない素人たちであった。その者たちをいかに踊らせるか。舞踏家養成は緊急課題であった。土方は言葉で振り付けた。日常の仕草の採取からはじまり、植物(木のこぶ、紫陽花、他)、動物(馬の首、馬のギャロップ、牛の首、蛇、他)、鳥(崖の上のカラス,孔雀、にわとり等、他)、人間・身体部位(馬車の少女、えーっの少女、とらわれの子供、パーティーへ行く狂人、花子、噂の老婆、子供=キューピット、半眼微笑・童女、他)、あらゆる形態、形象を言語化、それは抽象的であり具体的であり、即物的比喩的なもので、時には一片の詩を朗読するように語って動きを誘導、弟子たちに「振り」「型」として共有させた。その舞踏譜の一つ一つにはそれが成立するための厳密な成立条件があって、それはその場にいた弟子にしか理解不能なものである。著名な舞踊評論家・市川雅は「我々外部のものが立ち入ることのできない領域」と評した。

舞踏譜の一例「ヴォルス・千本の枝」の成立条件
・千本の枝を知覚
・こめかみの枝が折れる ポキ
・鼻が耳になる
・後頭部から千羽の鳥が飛び立つ パタパタ
・足元から虫が這いあがってくる
・その虫を踏み潰しながら歩く ジャリジャリ
・頬の痙攣
・小指のピクッ
・喉仏が三段に閉まる ゴクッ
・背中でスプーンが落ちる音 カチャリ
・頭蓋の木の葉がカサカサ
・歩こうとしてからだの中にカチャッと鍵がかかる部屋がある
・歯痛シーシー
・左首筋に這うなめくじ
・足元を飛ぶバッタ
・空間のヒゲ
・馬の首
・変な微笑
・そのまま逃げる バイバイ

 わずか一、二行のものから、「墓守」「フラマン」「都市」「運河」等、長編の現代詩さながらのものまで「舞踏譜」は数えきれないほど残された。「振り、型」を示す舞踏譜の一つ一つの「成立言語」は、他の舞踏譜とも関連している。

提供: ストーリー

三上賀代著
『器としての身體-土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』(1993年、ANZ堂)、
『増補改訂 器としての身體-土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』(2015年、春風社)、
『The Body as a Vessel』translator:Rosa van Hensbergen
2016年 UK Ozaru Books 
http://ozaru.net/ozarubooks/vessel.html


(文責 とりふね舞踏舎)
Torifune-butoh-sha.com

提供: 全展示アイテム
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