立花宗茂像(1654) - 作者: 不詳 賛 蘭渓宗瑛立花家史料館
立花宗茂像
柳川藩初代藩主、立花宗茂(1567-1643)の肖像画。
本図は、立花家とも縁の深い大徳寺の152世蘭渓宗瑛着賛し、宗茂十三回忌のために制作されたと考えられる。絵師は不明であるが、勇将宗茂の相貌を偲ばせる貴重な作品である。
豊臣秀吉判物【重要文化財】 九州平定を図る島津勢により立花山城は包囲され開城を要求される。宗茂は、立花山城が「名字」の地であること、毛利勢の援軍が間近であること、秀吉の指示で多量の鉄砲が搬入されていることを告げてこれを拒否した。それを受け島津勢が囲みを解き撤兵を始めたところ、宗茂は一挙に島津方の守る高鳥居城を激戦の末落城させた。秀吉はこの戦いぶりを「九州之一物」と賞した。この文書は秀吉から安国寺恵瓊、黒田孝高、宮木堅甫へ宛てたもので、元来黒田家に伝わったが、後に立花家が所望し蔵するに至った。
伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足(16th century, Momoyama period) - 作者: 不詳立花家史料館
伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足
初代藩主立花宗茂の具足。全体にむだのない質実剛健な具足だが、胴の栗色革、草摺の朱漆、佩楯の銀箔という色彩の組み合わせは戦国時代らしい大胆な華やかさも感じさせる。兜鉢の下方にさがっている部分は典型的な日根野𩊱で、肩繰りの深い、緊張感のある見事な形も見所のひとつ。
金箔押桃形兜(16th century, Momoyama period) - 作者: 不詳立花家史料館
金箔押桃形兜
戦場で立花家の一隊全員揃って着用させたものと思われ、文政五年の御道具帳にはて318頭の存在が記される。現在239頭が残る。 桃山時代から江戸時代前期にわたって段階的に作られた。兜の後立の筒には、裾黒で下すぼまりの幟を立てていたことが文献に記されている。
鉄皺革包月輪文最上胴具足(16th century, Momoyama period) - 作者: 不詳立花家史料館
鉄皺革包月輪文最上胴具足
柳川藩初代藩主立花宗茂の甲冑。胴に大きく描かれているのは、兜の脇立と同じ意匠の輪貫(わぬき)で、立花家では月輪(がちりん)と呼ばれる。胴廻りは大振りで地鉄は厚く、胴の重量だけでも12kgと非常に重い。立花宗茂は、当時としてはずいぶん体格のよい人物であったことが想像される。
金溜地塗籠弓(17th century, Edo period) - 作者: 吉田茂氏立花家史料館
火縄銃 銘 墨縄(16th-17th century, Momoyama period) - 作者: 不詳立花家史料館
火縄銃 銘 墨縄
黒田長政と宗茂との間で鉄砲と弓の優劣論が起こり、長政が銃、宗茂が弓で競い、勝者が敗者の武器を取ることした。宗茂が勝ち長政からこの火縄銃が贈られたが、宗茂からも弓を贈り返したという。墨縄とは大工が直線を引くために使用する道具で、そのように玉がまっすぐ飛ぶことからついたといわれる。
軍神掛物 宗茂が陣中に持参した御守本尊と伝わる。中央の猪に乗る三面六臂の像は戦国武将の信仰を広く集めた摩利支天、左の軍馬に乗る甲冑姿の像は戦に勝利をみちびくとして信仰された将軍地蔵(勝軍地蔵)、右の笏を手にする像は高野山の鎮守、高野明神と思われる。摩利支天や将軍地蔵の垂迹である愛宕権現の護符は、立花家に複数遺されている。
一節切(17th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
一節切(ひとよぎり)
宗茂が所有した縦笛で、戦国から江戸時代初期の名工、原是斎の作。戦国時代、多くの武将たちがこの一節切を嗜んだが、江戸時代に音域が広く表現の幅のある尺八が登場し次第に忘れさられた。一節切は、竹の幹の中間部を用いて作られ、尺八に比べてほっそりとした姿で、名前の通り節が一つしかない。
茶杓 銘 夜雨 筒銘(墨書)「□(四方口判)夜雨 □(花押)」※花押は裏千家八代一灯宗室
貝香合(不詳)立花家史料館
貝香合
寛永15年(1638)、もしくは翌年の3代将軍家光の立花家下屋敷(現東京都文京区ヵ)御成の際、拝領した香合。宗茂は寛永6年(1629)に下屋敷に移り、上屋敷(現東京都千代田区ヵ)を18歳の忠茂に譲った。この頃から段階的に忠茂への藩主権限の移譲が進められたとみられている。
赤褐釉四耳壺 銘 養老(17th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
赤褐釉四耳壺 銘 養老
瀬戸茶壷。宗茂が73歳の頃、寛永16年7月、3代将軍家光が立花家下屋敷へ2度目の御成り茶会の折、拝領した茶壺と伝わる。その姿は肩から底に向けて緩やかにすぼまり、細長い佇まいであるが、黒い鉄釉による荒々しい刷毛目が力強く躍動感ある景色をみせ、堂々とした風格を感じさせる。
刀 無銘 兼光 銘はないが、古くから有名な刀工集団が活動していた備前国長船(岡山県瀬戸内市長船地区)の刀工・兼光の作と鑑定されている。「肩落ち互の目乱れ」の刃文は兼光の父・景光が最も得意とするもので、その一門によく見られる。 戸次道雪が常に指料としていた本刀を初代藩主・立花宗茂が譲り受けたと伝える。その後、3代藩主・鑑虎が家臣に下賜したが、4代・鑑任の代に返還され、幕末には道雪を祀った神社に奉納された。
鑓 銘 濃州関住兼貞(1537) - 作者: 兼貞立花家史料館
鑓 銘 濃州関住兼貞
兼貞は美濃国関地方(現在の岐阜県関市)の刀工。立花家伝来の「御腰物由来覚」では「鑓 銘 播州住政国作」とともに初代藩主・立花宗茂が朝鮮出兵に持参し武功をたてた鑓と伝えられる。柳川藩主の参勤交代の際には、藩主の駕籠のすぐ後ろに配され、必ず持参されるようになっていた。
鑓 銘 政国(1568) - 作者: 政国立花家史料館
鑓 銘 政国
銘は「播州(現在の兵庫県南西部)政国」と読み取れる。しかし、江戸時代の道具帳では「相州(現在の神奈川県)政国」と記されており、どちらの刀工か確定できない。「御腰物由来覚」では「銀杏御枕槍」とされ、「鑓 銘 濃州関住兼貞作」とともに朝鮮出兵に持参し武功をたてた鑓と伝わる。
銀杏葉紋鞍(17th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
銀杏葉紋鞍
初代柳川藩主、立花宗茂所用の鞍。
総金梨地海有水干鞍で、前後輪の表中央に銀の杏葉紋を据える。紋は、銀の切金から仕上げたものと思われる。
立花家の御定紋は祇園守紋であるが、宗茂時代の御道具類には、大友家由来の杏葉紋のみが使われる場合が多い。
立花邸御花のあゆみ
1738年(元文3年)、5代柳川藩主・立花貞俶は、それまで柳川城内の二ノ丸御殿にあった、子や側室、女中などが暮らす生活の場、いわゆる奧向の機能を城の南西隅へ移して「御花畠」と称しました。御花畠屋敷は、参勤交代で江戸と柳川を行来する藩主が、国元でくつろぐ私的な場所となりました。
鯉の瀧登り図蒔絵鞍(1744) - 作者: 下絵:狩野探幽立花家史料館
鯉の瀧登り図蒔絵鞍
五代柳川藩主、立花貞俶所用の海有の水干鞍。黒漆地に鯉の瀧登り図を金銀蒔絵であらわす。これは、黄河中流の急流龍門の下に集まる鯉のうち、これを登った鯉は龍となると伝える中国の故事にいう登龍門(立身出世のための関門を意味する)をあらわしており、武家において大変好まれた画題である。
御花畑図 御花畠屋敷には、細川家の水前寺成趣園(熊本県)や島津家の仙巌園(鹿児島県)をはじめ、今に残る大名庭園によく見られるような、大きな池の周りを巡りながら鑑賞して歩くことができる、池泉回遊式庭園がつくられていました。江戸時代に描かれた庭の絵を見ると、サクラやモミジなどの樹木やショウブなどの植物が植えられ、四季折々の変化が楽しめる庭であったと想像されます。
立花寛治像 大正6年(1917)石橋美三郎作
最後の藩主となった鑑寛から家督を譲られた、立花家14代当主・寛治は、1884年(明治17年)の華族令により伯爵となりました。寛治は、1871年(明治4年)のの廃藩置県により東京へ移住していましたが、1889年(明治22年)に、生活の拠点を東京から柳川へと移します。
1910年(明治43年)5月、これまでの敷地を拡張してつくられた、洋館と和館が並び立つ新しいスタイルの伯爵邸と、松濤園と名付けられた大らかで開放感あふれる庭園が完成、柳川の人々に披露されました。伯爵立花家の人々は、庭園に面した伝統的な日本家屋で日常生活を営んでいました。当時の写真を見ると、男性は主に洋装、女性はほとんど和装ですごしていたようです。
中寿老白鹿左右蓬莱山水図 立花家の「道具帳資料」によれば、「大量公御還暦旧御領内有志ヨリ進上」とあり、大正6年(1917)の立花家14代寛治の還暦祝いとして、贈呈されたものである。いかにも還暦祝にふさわしい吉祥画ながら、左右の山水は、風景画を得意とした玉堂ならではの幽玄な趣に満ちている。
立花伯爵邸西洋館竣工にあわせて、明治43年に注文されたもで、底に染付で、深川製磁の商標「富士山に流水」のマークが入っています。 縁を飾る金彩の瓔珞文に空色に近い明るい呉須(酸化コバルト)で「祇園守り」の定紋を入れ、金彩で輪郭線を引いたモダンな感覚のデザインがあしらわれています。
「貝合せ」は、江戸時代の大名家の婚礼調度のひとつでした。貝の内側には1組2枚に同じ絵が描かれています。
立花伯爵家の洋食器
染付藤文ディナーセット
西洋館竣工の明治43年(1910)にあわせて注文された、宴席を飾るディナーセット。21種182個の一揃いが残り、 すべての器に香蘭社製を記す「蘭マーク」が染付で入っています。
~平常展~ 歴代の武具甲冑 -戦の時代から泰平の時代へ-
柳川藩主立花家に伝わる歴代の甲冑を追っていくと、戦国時代から江戸時代末期にかけての変化と、立花家として受け継がれるものの両方が見えてきます。
鉄黒漆塗骨牌鉄繋畳具足・櫃(17th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
鉄黒漆塗骨牌鉄繋畳具足
二代藩主忠茂が島原の乱に持参したと伝わる具足。折り畳めるように、長方形の骨牌鉄を総鎖で繋いでいます。兜は、輪状の板を六段重ねて紺糸素懸威し、折釘で固定して兜鉢の形にする提灯兜で、専用の櫃に、胴・兜・籠手がすべて収納できます。
鉄錆地桜文亀甲鉄繋畳具足(17th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
鉄錆地桜文亀甲鉄繋畳具足
戦のない華やかな時代を生きた3代藩主の甲冑。 小さく畳める畳胴は、本来予備的な具足でした。しかし、本作は藩主の具足に相応しく贅沢で凝ったつくりで、所有者の好みが反映されているようです。胴は桜模様透かしがデザインされた亀甲形で、釣鐘形の兜は金銀の象嵌や鋲で華麗に装飾されています。
鉄錆地雲龍文打出縦矧二枚胴具足(18th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
鉄錆地雲龍文打出縦矧二枚胴具足
4代藩主・鑑任所用の甲冑。胴は龍打出しの意匠。金物類は全て赤銅(銅に少量の金を含む日本古来の美術用合金)で作られていて、わずかに紫色を帯びた美しい黒色に仕上げられてます。一見地味ではありますが、藩主所用品にふさわしく入念にに仕立てられています。
鉄錆地雲龍文打出縦矧両引合胴具足(1754) - 作者: 不詳立花家史料館
鉄錆地雲龍文打出縦矧両引合胴具足
7代藩主・鑑通所用の甲冑。4代鑑任所用の具足と共通する意匠、技法が見られ、本品も派手さはありませんが精緻な細工の赤銅金物を多用するなど、入念に作られています。鉢裏に「宝暦四甲戊年王(閏)二月吉日」と墨書があり、鑑通27歳時の製作とわかります。
鉄黒漆塗萌黄糸素懸威最上胴具足(1860) - 作者: 明珎国貞立花家史料館
鉄黒漆塗萌黄糸素懸威最上胴具足
幕末、最後の藩主、12代鑑寛の具足。全体として高い技術と洗練を感じさせる甲冑です。「柳河住明珍國貞」の銘があり、江戸幕府お抱えの甲冑師・明珍家で修行し、柳川藩お抱え甲冑師となった國貞の作と考えられます。兜の前立は、立花家の家紋の祇園守紋を鍬形に変形させたデザインになっています。
大名家の婚礼調度
大名家の婚礼調度は、夫人の実家の家紋が蒔絵された揃いの調度が用意され、その質と量ともに大変豪華なものでした。立花家に残る婚礼調度の大部分は、幕末にお国入りを果たした最後の藩主の正室・純姫のものです
唐草葵紋蒔絵挟箱(19th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
葵紋蒔絵挟箱
挟箱は、衣装や身の回りの品を入れて長い担い棒で肩に担いで運ぶ収納箱でした。本作は、黒漆塗地に徳川家の葵の紋が金蒔絵であらわされた豪華な挟箱です。12代藩主の正室、純姫は 田安徳川家3代徳川斉匡 (1779-1848) の娘でしたので、婚礼調度として用意されたものと考えられます。
葵紋蒔絵長持(19th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
葵紋蒔絵長持
長持は衣類や蒲団等を入れる箱で、両端の金具に棹を通して二人で担ぎ、運搬用にも用られました。本作は、12代藩主正室、純姫の婚礼調度で、実家の家紋である徳川家の三つ葉葵紋が蒔絵であらわされています。
梅唐草祇園守紋蒔絵女乗物(19th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
梅唐草祇園守紋蒔絵女乗物
江戸時代、乗物の使用は身分によって細かな区別がなされていました。そのなかでも本作は、大名家の女性が使う格式の高い豪華な仕様のもので、前後2人ずつで担がれたようです。黒漆塗りに金蒔絵で唐草と二種の祇園守紋があらわされています。
立花家の人形と雛調度
立花家に伝わる人形や雛調度の特徴のひとつは、その小ささです。隅々まで細やかに作り込まれた精緻な工芸品の見事さには目をみはるものがあります
有職雛(19th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
有職雛
これは江戸時代後期に京都で作られた雛人形で、装束、髪型、化粧など御所に住む公家の風俗が正確に考証されています。このような人形を特に有職雛(ゆうそくびな)と呼び、贅沢に仕立てられた特注品でした。
黒漆塗牡丹唐草文蒔絵雛調度(19th century, Edo period) - 作者: 江戸七沢屋立花家史料館
牡丹唐草蒔絵雛調度
小さな雛人形の調度品で、江戸時代の大名家の婚礼調度をうつしたものです。本作は、江戸の高級人形店七澤屋で作られたものです。七澤屋が作り出す芥子細工と呼ばれる超小型の雛道具は、その精緻な美しさにおいて、他の追随を許さぬものでした。
芥子雛(古今雛様式)(19th century, Edo period) - 作者: 江戸七沢屋立花家史料館
芥子雛
さながら芥子粒のように小さい芥子雛は、江戸時代後期に、幕府による奢侈禁止令によって、大型の雛人形の制作が禁止された反動で流行したとする説があります。本作は、艶やかな容貌や、大きく派手やかな天冠が特徴的な江戸生まれの古今雛で、「芥子細工」の名店江戸七澤屋製と考えらます。
賀茂人形(19th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
賀茂人形
この人形の最大の特徴はその小ささと温かな微笑みです。金襴などの布地を入れ込んだ木目込み人形で、参勤交代の折にお土産として求められたものと言われています。中でも特に小さな豆賀茂人形の一群は、底に小さな錘を仕込んだ起上りこぼしになっています。最も小さいものは5mmという極小です。
御所人形(18th-19th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
御所人形【音声ガイドP11】
御所人形は、江戸時代中期頃に京都で創始された人形で、西国の大名が参勤交代の途上、御所へ参内した際に賜ったと言われています。
丸々と肥えた愛らしい幼児の姿をあらわした人形で、木彫りや桐塑で造られた躯体に胡粉を厚く塗り重ね、白く艶やかな肌に仕上げています。
嵯峨人形(18th century, Edo period) - 作者: 不詳立花家史料館
嵯峨人形
嵯峨人形の中でも、「裸嵯峨」と呼ばれる裸形の童子人形は、御所人形の成立に影響を与えたといわれています。本作は、木彫りに華やかな色彩を施し、御所人形と比べ手足が細く、全体としてすっきりとした姿が特徴です。