環境省、林野庁をはじめ15団体のご協力の下公開しております
全世界で注目を浴びるアート集団、チームラボ。2021年春に彼らのアートの舞台となったのは、茨城県は水戸市に位置する偕楽園だ。
江戸後期(1842年)に作られたこの池泉回遊式庭園は、石川県金沢の兼六園、岡山県の後楽園と並ぶ「日本三大名園」のひとつ。国の史跡及び名勝に指定されている美しき庭園が、人々を惹きつける最大の理由はその梅林だ。
日本人にとって、梅は特別な存在といえる。7~ 8世紀にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集、『万葉集』では119首と、萩についで2番目に多く詠まれている梅。ちなみに現在日本のシンボル的存在である桜は45首と、その差は圧倒的だ。
原産は中国であるにもかかわらず、梅は多くの詩歌で称えられるだけでなく、「松竹梅」の意匠など人々の暮らしと密接に結びついてきたのはご存じの通り。
しかし何故、梅はこれほどまでに日本の人々を魅了してきたのだろう? その秘密の一つは、「枯れた」風情。樹齢80年以上の古木になると自然とねじれていくという梅の木は、一見「綺麗」と思えない人も多いかもしれない。
しかし梅ほど、「枯れた」風情や侘び寂びに美を見出す日本人の感性と呼応し、想像を掻き立てる樹木はないのだ。まだまだ寒気の残る3月に、荒々しく躍動感のある枝と、その先にほころぶ可憐な蕾のコントラストは今もずっと愛でられている。
そんな日本人の生活や文化にとって欠かせない梅が、約100種、3,000本も咲き誇るのが偕楽園。桜や紅葉など1種類の樹木に捧げた寺社仏閣は多くあるが、偕楽園の梅林の広さは別格。
この梅の名所でなんと120年以上にわたって開催されている「水戸の梅まつり」の歴史に、2021年、新たな1ページを加えたのが、猪子寿之さん率いるチームラボ。デジタル技術を駆使し、夜の偕楽園を光と音で幻想的に彩った。
「目指しているのは、認知の境界を超えるような体験」と話してくれた、代表の猪子寿之さん。彼が仲間たちと2001年に立ち上げたチームラボは、現在ニューヨークからパリ、北京まで国内外で常設展やアート展を展開している。
彼らを一言で表すなら、アーティスト、プログラマー、数学者、建築家など様々なバックグラウンドのエキスパートたちが集い、哲学的な視点から作品を発表するアートコレクティブだ。
創立後すぐの2002年から、「デジタルテクノロジーは自然を破壊することなく、生きたまま自然をアートにすることができる」という想いのもと、「Digitized Nature」プロジェクトに取り組んできた。
「長い時間が作る自然の形が、認知の限界を超える体験をさせてくれると思う」と、猪子さん。「人は自分の人生以上の長い時間は、想像しづらいと思うんです。例えば、昨日と比べて江戸時代は、今日と続いている時間だと認識しにくいですよね」
「ある意味人間は「江戸時代」などの境界を持たないと世界を認識できない存在だと思うので、自分自身も含め、そういう無意識の境界はどうしても持ってしまう」
「でも実は、境界が連続するなかに美しさがある。境界なく世界を見ることができたら、想像力ももっと広がると思います。今回の偕楽園のプロジェクトでいうと、特に「時間」を意識しました。歴史のある広大なお庭には、庭そのものができてからの時間が含まれている。
樹齢の高い木の作品は木自体の迫力もあるので、僕たちが都市でやっている展示よりもメッセージが分かりやすいかもしれません。自然が作ってきた、連続性を体験してもらえれば嬉しいです」
オーディエンスが作品に触れたり空間に入ることで、作品そのものも変化するというインタアクティブアートも、チームラボ作品を語るに欠かせない。今回の展示でも随所に散りばめられているが、猪子さんにとっては目的ではなくあくまで過程のよう。
「インタアクティブアートには、特にこだわってはいません。他者の存在を肯定できるような空間にしたいといつも考えていて、そんな空間を実現するために用いています。『自分と作品』と対立関係で考えるのではなく、来てくれる方たちも作品の一部と捉えてもらいたい。誰もいなかったら、何も光らず真っ暗になったり、何も動かない作品になってしまいますしね(笑)」
昼は気品にあふれ、伝統ある庭園の姿を見せる偕楽園。だが日が沈みチームラボが演出した光に照らされると、いきいきとした表情が覗き、まるで庭園自体が息づくように感じるから不思議だ。チームラボでコミュニケーションディレクターを務める工藤岳さんは、「昼と夜で全く異なる雰囲気も感じてほしい」と話してくれた。
庭園を案内しながら、工藤さんは「僕のお気に入りです!」と樹齢約250年の木も含むという由緒ある霧島つつじを紹介してくれた。
「昼間だと見過ごしてしまいがちですが、夜にスポットライトをあて焦点をしぼると、まるで静脈のようなつつじの形状までしっかりと見ることができます。影によって自然のディテールが際立ち、より存在感が増すことを実感してもらえると思いますよ」
研ぎ澄ますことで逆に広がりを感じさせるという感性は、とても日本的と言えるだろう。代表の猪子さんがその感覚を、あえて空間を狭めることで悠久の時や宇宙観までも感じさせる「茶室のよう」だと表現したのもうなずける。普段見ているようで見えていない、世界の細部に対する想像力が、夜の庭園では刺激されるのだ。
ほかに茶道でよく用いられる「一期一会」も、チームラボが照らす偕楽園を歩くと思い出す言葉だ。インタアクティブアートと並び、チームラボの作品の特徴のひとつであるリアルタイムアート。
事前制作された映像を再生するのではなく、コンピュータープログラムによりその瞬間に生まれる映像をオブジェクトに投影している。二度と同じものはないこの瞬間だけの映像と、常に変化し続ける自然がもつ、「一期一会」という共通点。この2つが抜群の相性を誇るのも、当然なのだ。
例えば巨大な杉に映し出されるのは、生と死を繰り返す、自然という生命の営み。咲いては散っていく季節の花を描くデジタルの情景が、約800年の時を生きる巨木の佇まいとリンクする。
チームラボのアート作品を味わう際は、彼らの感性や死生観が映し出されているタイトルにもご注目を。『生命は連続する光―梅林』や『具象と抽象―陽と陰の狭間』といったタイトルは、猪子さんや工藤さんをはじめとするメンバーたちが話し合って決めるという。
チームラボのアートは、デジタルが自然と対立していた時代に終焉を告げた。人々の動きと呼応し、まるで梅林全体が呼吸しているかのようなロマンティックな表現は、彼らの哲学的な視点とデジタル技術の融合の賜物だ。対立から共創へ。連続性をもつ命としての自然を深く表現しようとすればするほど、デジタルアートの可能性はさらに開かれていく。
昭和9(1934)年、日本最初の国立公園の一つとして誕生した日光国立公園。福島、栃木、群馬の3県にまたがり、日光地域、鬼怒川地域、塩原地域、那須・甲子地域の大きく4つのエリアに分けられる。
日光国立公園の大半が那須火山帯に属する山岳地であり、北関東最高峰である白根山をはじめ、古くから信仰の山として崇められた男体山、今なお火山活動の続く茶臼岳などの山岳が分布する。
また、これらの山麓には高原が広がり、その中に火山活動によって生まれた湖や滝、渓谷などが、四季折々の美しい景観を見せてくれる。さらに、世界遺産にも登録された『日光東照宮』や『日光二荒山神社』、『日光山輪王寺』など歴史的な建造物が雄大な自然と融合し、ここにしかない日本の風景を生み出している。
日光国立公園は、東京からのアクセスの良さも魅力。電車や車により最短2時間で訪れ多彩な自然や歴史に親しむことができる、その気軽さこそが国内外の旅行者に人気の理由なのだ。
山岳と森が広がる日光国立公園の魅力のひとつ、四季折々の多彩な景観の変化に注目したい。
日光市街地から奥日光方面へと標高差があるため、狭いエリアの中で季節の移ろいを見ることができる。四季それぞれの魅力に出会える場所について、『日光湯元ビジターセンター』のスタッフに聞いた。
「奥日光に遅い春が訪れる5月には、中禅寺湖畔のオオヤマザクラがとてもきれいに咲きます。このサクラは、ソメイヨシノなどの普段よく見るサクラと比べて、ピンクの色が濃いんですよ。
それから、栃木県の花であるアカヤシオなどツツジの仲間も5月初旬ごろからあちこちで見られます。『いろは坂』は秋の紅葉で有名ですが、ツツジの名所でもあります」
梅雨が去ると、霧降高原や沼原湿原、白根山や那須岳などの山々に高山植物が咲き始め、その眺めはまさに百花繚乱。「9月から10月にかけて、滝の周辺から木々の葉が色づき始め、美しい紅葉シーズンに突入します。とくに、湖面に鏡のように映る紅葉は絶景です」
日光国立公園の入口には、世界文化遺産『日光の社寺』に登録された『日光東照宮』や『日光二荒山神社』、『日光山輪王寺』などが建ち並ぶ。こうした『日光の社寺』の多くは江戸時代に建てられたもので、建造物内外に漆や金箔、緻密な装飾などが施されていることが特徴だ。
日光のシンボルとも言える現在の『日光東照宮』は、徳川三代将軍家光が、祖父家康のために、当時の名工と最先端技術を集めて造営したもの。日本近世の宗教建築を代表する『権現造形式』の完成形ともいわれ、その後の神社建築にも大きな影響を与えた。
豪華絢爛な装飾は単なるデザインではなく、信仰形態や学問、思想などが表現されており、神厩舎に飾られる「見ざる・言わざる・聞かざる」で知られる『三猿』や、平和の願いが込められているという東回廊の『眠り猫』は有名だ。
豊かな自然の中、建造物の美しさを堪能するひと時はなんとも贅沢。悠久の時の流れを感じながらパワーチャージできそうだ。
栃木県の北部、那須連山の山麓に広がる那須高原にある『日光国立公園 那須平成の森』。これまでは那須御用邸の用地として、一般の人が立ち入ることはできなかった。
豊かな自然に触れ合える場として活用してはどうかと、天皇陛下御在位20年という節目の機会に、那須御用邸用地の一部が宮内庁から環境省へ移管。平成23(2011)年、『日光国立公園 那須平成の森』として開園した。
約560ヘクタールの広大な森は『ふれあいの森』と『学びの森』から構成される。『ふれあいの森』は車椅子でも利用できる園路や遊歩道などが整備され、自然のなかを自由に散策することができる。『学びの森』では、環境を可能なかぎり守るためインタープリターと呼ばれる森の案内人と一緒に歩く『ガイドウォーク』での立ち入りが可能だ。
一歩足を踏み入れれば、ミズナラやブナの自然林に囲まれ、頭上からは鳥の声が響く。季節や時間帯によっては、ツキノワグマをはじめキツネ、ヤマネなど多くの動物たちの足跡やその姿も見られるという。
『那須平成の森フィールドセンター』のスタッフによると、観光客だけでなく、近隣の小中学校の生徒が授業の一環としてガイドウォークに参加することもあるのだそう。
「子どもたちは自分たちの生活に身近な田畑や川が、森や山につながっているということをインタープリターの話や実体験を通して学びます。
ガイドプログラムは、自然の不思議さや自然の共生関係を伝え、水が循環することで地球上の生物が存在できていることを理解し、環境への意識を促すように意識しています」
森での体験を気に入って、何度も森を訪れるようになる家族もいるそうだ。
「ただ木が集まっているだけだと思っていた森には、実は昆虫がいて、キノコが生えて、ヘビやカエルもいて……と、こんなにも多くの生物がいるのだということに驚くようです。これからも自然とのつながりを感じ、考える場にしてもらえたらと思っています」
豊かな自然と日本の文化を一度に味わえる日光は、外国人にも人気のある観光地だ。
ほかの国立公園と比較して、とくに欧米豪から訪れる旅行客が多く、2020年7月に「ザ・リッツ・カールトン日光」がオープンしたことにより今後の需要の高まりが期待されている。
最近では、国内外の観光客にさまざまな視点から日光を楽しんでもらおうと多くのアクティビティツアーが登場しており、中でも気になるのが、『修験道エクスペリエンス』だ。
日光は奈良時代から山岳信仰が育まれ、山にこもって厳しい修行を行う『修験道』が培われてきた。そのため、山奥にはそうした歴史を今に伝える石碑などが数多く残されている。
ツアーでは、霧降高原の隠れ三滝をめぐった後、日本の伝統的な修行の一つである滝行を体験。日光の自然と文化が生み出す神秘的な魅力の一面に触れられるはずだ。
もともと日光と海外観光客とのつながりは古く、『ザ・リッツ・カールトン日光』が立つ奥日光・中禅寺湖畔は、明治期より各国の大使館をはじめ多くの外国人別荘が建てられ、国際避暑地として栄えてきた歴史がある。
当時の建造物は現在にも残されており、明治29(1896)年に英国の外交官アーネスト・サトウが建て、奥日光の原点となった英国大使館別荘と、1928(昭和3)年に建てられ、歴代の大使たちが愛用したイタリア大使館別荘は、『別荘記念公園』として一般公開されている。
こうした歴史的な建造物たちは時を超え、私たちにその優雅な避暑生活の一端を垣間見せてくれる。木漏れ日の降る森と穏やかな湖を眺めていると、ヨットやマス釣りを楽しむ華やかな人々の様子が目に浮かぶようだ。
日光は、全国でも数少ない天然氷の名産地でもある。しかし、かつては盛んだった製氷業も、現在残るのは3軒のみ。最近では温暖化の影響で天然氷を作るのが一層難しくなっているという。そんななか120年以上もの間、変わらない手法で受け継がれてきた天然氷作り。
山々から湧き流れ出る水を池に流し込み、冬の寒さによって少しずつ凍らせて作る天然氷は、透明で美しく、ミネラルを含んでいるためほんのりと甘い。削ればふわふわときめの細かいカキ氷ができあがる。食べても頭がキーンとしないのも特徴だ。
この豊かな自然環境と先人の知恵があったからこそ生まれた天然氷。夏の日光に訪れた際にはぜひ味わってほしい。
現在も上野公園内に点在する寛永寺は、正式名「東叡山寛永寺」。1625年に“東の比叡山延暦寺”として開かれた寺だ。当時は上野の山全体が、寛永寺の境内だった。
写真:一立斎広重(歌川広重)「東都名所 上野東叡山全図」(国立国会図書館デジタルコレクションより)
都市の花文化を作ったとも言われる上野公園の桜。そもそもは寛永寺を創建した天海大僧正らが境内に吉野の山桜を植えたことから始まったといわれる。寛永寺の名の元になった寛永年間(1624-1645)の終わり頃には、上野の山が桜で埋め尽くされ、花見の名所として知られるようになったという。
写真:上野公園のシンボルとなっている寛永寺。撮影/須賀一
1868年に始まった「戊辰戦争」の戦場となった上野の山。まもなく森は息を吹き返すが、明治新政府が、ここに広大な大学病院建設を計画する。これに異論を唱え、豊かな自然を活用した公園の建設を提案したのが、大学講師として日本を訪れていたオランダのボードウィン博士だ。すでに基礎工事が始まっていた大学病院の計画は中止され、こうして日本初の「公園」、上野公園が誕生する。
撮影/三吉史高
第二次世界大戦では公園も空襲に見舞われ、戦後間もなくは人々の避難所として機能した上野公園。とはいえ1956年には、都市公園法が施行され、公園復活への整備が進められた。上野公園の造園も手がけた造園家の田瀬理夫さんによると、写真の背景に見える上野の町(1964年)も、この年の東京オリンピックを機に、ビルが次々建設されるようになったという。
写真:須賀一写真展「昭和の上野」より。かつて袴腰広場にあった彫刻、「みどりのリズム」(清水多嘉示作)。何度か移設され、現在は上野グリーンサロン前に設置されている
1960年の写真では、桜のテーマパークとしての上野公園も復活。当時まだ数少なかった外国人観光客がガイドの説明で桜を楽しんでいる様子が残されている。
写真:須賀一写真展「昭和の上野」より
1970年代には、京成上野駅の改修工事のため、公園内の大規模な工事もおこなわれた。その造園工事を造園会社「富士植木」のスタッフとして担当した前出の田瀬理夫さんによると、この工事に際して国が出した条件は「公園の緑量を減らさない」こと。
写真:現在の袴腰広場。撮影/平野晋子
「袴腰から大噴水まで、植えられていた一本一本の植物を、東京郊外に一時移設。工事が終了してから植え戻すという、5年をかけた大規模な工事でした」(田瀬さん)。噴水広場に面している国立科学博物館の周辺の森も、1970年代の工事で一時移設された。
撮影/三吉史高
現在の上野公園は、多くの美術館や博物館、そして大学、動物園まで、都市に生きる人たちが求めるさまざまな街の要素が、詰め込まれている。それぞれの施設の周囲にはゆったりしたオープンスペースが配され、その間を埋めるように上野の森が息づいている。
撮影/三吉史高
ヨーロッパの庭園を模した明治時代の設計が今もベース。その魅力は「空間の広がり」と言うのは、前出の造園家、田瀬理夫さんだ。緑や木々が多いオープンスペースが次々と出現するこの公園の構成は、近代以降の日本が、何度も実現しようと模索してきた理想の街の形。「それを実現し、しかも現代になった今も実在させている場所は、上野公園以外に知りません」。
撮影/三吉史高
自然、文化、歴史という3つの要素からなる上野の森。近代以降の理想の都市の形を提示しながら、今日も多くの人々をひきつけている。
撮影/平野晋子
写真:上野公園内にある正岡子規記念球場。撮影/高山剛
9代目の「パイオニア」
「日本林業を牽引する存在とは?」と林業関係者に聞くと、多くの人がこの男性の名を挙げるだろう。
熊野灘と接し、三重県は北牟婁郡(きたむろぐん)紀北町海山区に位置する「速水林業」代表の速水亨(はやみとおる)さんだ。「速水林業」の始まりは、遡ること1790年。速水さんはなんと9代目。
彼が「パイオニア」と呼ばれる理由は、数多い。森林経営の管理と合理化、大型機械の導入、林道の徹底整備、育苗開発、日本初のFSC認証の取得、労働環境の改善……等々。名林業家だった父の勉さんの後を継ぎ、35年以上、自分の山だけでなく日本の林業全体のために走り続けている。
全国に轟いた、尾鷲林業地域の評判
まずは、速水さんが持つ山の歴史を見てみよう。ここは江戸時代より名を馳せた、尾鷲(おわせ)林業地域の中心地。元々やせた土壌のため木の成長はゆっくりだが、その分手間をかけることで年輪が密で強度があり、油分が多いため光沢を放つ尾鷲ヒノキが有名になっていく。
また木を運ぶ水運や海運の利便性や紀州藩の政策、戦前の架線搬出技術の工夫も組み合わさり、その品質と美しさはずっと受け継がれ、全国に知られてきたのだ。
今も昔も、伐採される木が美しいということは、山も美しいと見て間違いはない。実際に、「速水林業」の山が証明だ。木々の間に陽がたっぷりと差し込み、地面はまるで緑のブランケットのようなシダで覆われている。土のふかふかと柔らかな踏み心地も相まって、歩いているだけで心地がいい。もちろん人工林なのだが、その言葉の響きから想像される無機質なイメージは全く似つかわしくない。
こんなにも健やかで清々しい山を育む人は、森林に対してどんな考えを持っているのだろう。いざ、速水さんを訪ねてみた。
未来を考えながら、今を決断する
自己紹介の後、世間話的に始まったのが、最近切った木が樹齢233年だったという速水さんの話。「創業当時に植えられた木で感慨深いですね」と言うと、「歴史なんて考えていたら木は切れませんよ」と、鮮やかに返された。
「林業家には昔話が好きな人も多いですけどね。感情的にならず、山や市場など全体を見ながら、目の前の1本を切ることが大切なんです」と続く。日本でも有数の林業の老舗に生まれながら、あまりにも軽快な返答に一瞬面くらったが、この経営に対する姿勢こそ速水さんが「日本林業再生の立役者」と呼ばれるゆえんなのだ。
林業というビジネスを成立させるために
では感情論に陥らず、合理化のもと健全な林業経営をするには?
大学卒業後の1976年、実家の山へ戻った速水さんがまず手掛けたのが、森の徹底的な数値化。「とにかく実態を把握したかった」と、冗談で私たちを笑わせてばかりの速水さんが、ふと真剣な顔になり教えてくれる。
「木の高さや太さ、樹齢に応じた本数などを、自分でプログラミングしたシステムを使いデータに起こしました。数字として客観的に山を見なければ合理化できる点も分からない。自然を相手にしているからこそ、人間の経験だけに頼っていては前に進めませんから」
理想の森もインフラ整備から
さらに速水さんは、林道整備や作業の機械化も促進していった。伐採した木を長いまま傷をつけずに運び出し、山の中に作業場を確保するため広い林道は不可欠。今「速水林業」の作業道と林道は、全国平均よりも約3倍も多い。父の勉さんの代から取り組んできたというこの林道の整備は、ドイツや北欧などヨーロッパの大きめの機械を導入するのにも役に立ったそう。
また機械を直接輸入するだけではなく、自分たちで改良を重ねるのが速水流だ。30年以上使い込まれてきたとは思えないほど美しく保たれた機械たちは、まさに世界で一つだけの品に磨き上げられてきたのだ。「想定している山が違うので、完璧に合わない点があって当たり前。だからこそ、自分たちで考え工夫する。私たちで行うメンテナンスも、部品を作ることから始める時もありますよ」
研究の成果も共有する姿勢
さらに育林コスト削減を目指し、苗木の研究にも長年取り組んでいる。辿り着いた挿し木による苗木は生産・作業効率を上げただけでなく、地球温暖化の影響で台風がより多くなった今、強風に負けない森林作りにも貢献。ここで驚くべきは、その努力の結果である苗木を、希望者には分け与えているという。「山の条件が違うので、使えないかもしれないですけどね」と笑いながら話す速水さんは、自身の知識やノウハウを出し惜しみしないのだ。
「パイオニア」とは、ただ闇雲に新しいことを始める人のことではない。自分の後に続く道をきちんと作った者こそその名にふさわしいのだと、誰もが速水さんを見て納得するだろう。実際に、県や林野庁、農林水産省などの行政機関の委員会でも多くメンバーとなり、持続的な林業経営について発言し続けている(速水さんの話によれば、時に煙たがられながら)。
自然と合理性を両立させて
端的に日本の状況を説明すれば、「山」と「効率化」をうまく結びつけられない人々が、実は日本には多くいる。考えれば林業も他の産業と同じく利益を生むのは当然なのだが、日本には古来より山岳信仰があり、今も山は神々の住む場所として崇められることが多い。神聖な場所で、お金の匂いを嗅ぎたくないのはどこの国でも同じだろう。だからこそ雇用を生み、地域に貢献する「生産の場」としての林業の山作りを知らしめた速水さんの貢献は、日本で広く注目されたのだ。
心地よさが、すべてを物語る
秋の山を案内してもらいながら、「速水さんにとって、いい山とは?」と投げかけてみる。答えは、「気持ちのいい森」とシンプルだった。
「ここの山は、散歩していても気持ちがいいでしょう? 循環がうまくいっている山は、子どもでも理屈抜きに美しくて心地よく感じる。森は暗くて怖いと言う人も多いけれど、きちんと間伐して手入れされている森ならば、光がきちんと行きわたっていて綺麗。今の日本も、木が足りないのが問題ではない。適切に木を間伐していない山が放置されていることが問題ですからね」
「大事なのは、下草。木を適切に間引いて光が地面に当たれば、生えてくる草が雨のクッションになり、適量の雨が腐植土に染みていく。土が急激に削られ、崩れることもありません。台風の後でも私たちの川の水が濁ることがないのは、下草と土がろ過装置のような役割を果たしているから。人間がやるべきことさえやっていれば、自然は自分たちで解決するんですよ」
「生き物の集合体としての森」と歩む林業速水さん自身が「インターネットから画像を寄せ集めて作った」という絵にも、生態系としての森の姿が表れている。事務所の外にかけられているこの絵の半分を占めるのは、目に見えない地面の中だ。地上にまっすぐ映える木を下で支えるのは、複雑に絡み合う根の、逞しい生命力。
「林業とは、『生き物の集合体としての森』を相手にしている産業です。植物だけでなく、山に生きる動物たちもすべて含めた生態系の循環をイメージする。この大前提を踏まえたうえで、どう生産性を高めていくか。これからの林業の活路は、ここにあると思います」成果が出るまで50年、100年もの時間がかかる林業の世界において、政策を巡る行政との関係で悔しい想いをしたこともあっただろう。それでも「林業が好きだから」と笑う速水さんの姿には、頼もしさが満ち溢れていた。
課題と期待とともに、前へ進む好きだからこそ歩みを止めない速水さんは、現在森林投資の分野を開拓しつつ、400年後の山作りも始めている。「私がいなくなったずっと後の未来で、法隆寺(607年に創建された世界最古の木造建築物)の補修工事で使ってもらえるかもと期待しています」という顔は実に楽しそうだ。さらに今後は、「最終的に木がどのように使われるか、どのような製品になるかを考えて山を手入れする」ことも大切だと言う。ユーザーと林業家がもっと近くなり、人々が木にもっと可能性を感じ、愛着を持つ。「速水林業」が育む森からは、そんな未来も遠くないのだ。
建材だけでない、木の可能性とは?最後に、どんな木の可能性があるかもご紹介しよう。速水さんが「消費者の意向を知り、木を使う立場としての意見がありがたい」と話すのが、横濱金平(よこはまきんぺい)さん。木材研究から商品開発まで行い、多くの特許も取得しているイノベーターだ。古くより学問に明るく、常に時代を切り拓いてきた三重県に根を張っている。
自然そのものが奏でる、心地よい音そんな横濱さんが2020年に発表したのが、自らの名を冠した「KINPEI」。グランドピアノの構造にインスパイアされたという木のサウンドシステムは、「音を一点に集中し強いエネルギーにしてから木全体を面振動させることで、まるで室内楽のホールのように全身に心地よく響く音が生まれます」と、横濱さん。正確なのにいつまで聴いていても疲れない音は、限りなく規則的で不均一な材料の特徴を持つ木目ならでは。
木の可能性が広がる、未来へ距離減衰率が小さく音を遠くまで伝達するため、天井や壁、床を鳴らせるもこのサウンドシステムの特徴。つまり家でスピーカーのように使うだけではなく、まるで教会で音楽を聴くように、部屋全体を音で包んでくれる。今までにない木の発想が、画期的な技術によって、美しい音となり生まれ変わるのだ。建築資材のニーズが減っている今、どう山を生かし、山と暮らしていくか? 森林の可能性は、これからが面白い。